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チューリップからのひとこと。

あんなに咲き誇っていたチューリップが、あっという間に終わってしまい。
忙しくしてるうちに、時間が過ぎているのを感じます。
そんなわけで、ゆっくり見送りもできなかったので、
今回のチューリップとの思い出を書き残しておこうかと。

さてさて。見頃の時期に、春の嵐がやってきて大雨を降らせました。
チューリップって、あの形態だから、花の中に結構な水量が溜まってしまう気がして。
何だか、どの花も重そうに首を傾げていたものだから、
かわいそうに思って、助けるつもりで茎をちょっと曲げ、水をバシャっと排出してみました。
最初の一本は柔軟性のあるチューリップだったようで、成功したのだけど。
それに気を良くして、もう一本、曲げようとしたら…。
そっちは硬い種族だったみたいで、あっけなくポキっと折れてしまったのです。

ガーン…。
良かれと思ってやったことがアダになり。
雨の中、オレンジの大きなチューリップの花を持ち、折れた茎を見ながらしばし茫然。

私は、この「良かれと思ってやったことが、実は迷惑だったことが判明した時の感情」を味わうのが苦手で(汗)。
食べ物の好き嫌いはないんだけど、感情はどうしても好みがあるなあ。
でも、感情こそ、やってきた時に味わっとかないとね。
無視して感じないようにしたりすると、溜まると心が重くなっちゃう。
それこそ大雨のチューリップみたいに。

それで、じんまりしながら静かに味わってると、
その折れたチューリップから一言もらいました。

「あなたがそうして心を痛めるのは、心の奥底で、私たちが”同じ一つの存在”と思ってくれてるからだよ。あなたが生きているなら私も生きてるってこと。折れても平気だよ」と。

ああ、そっか。この感覚が「同じひとつ」なのか。

その一瞬、チューリップの持つ感覚とリンクして。
すべての存在が繋がっていて「丸ごとひとつ」である感覚、を垣間見せてもらった気がしました。

よくスピリチュアルな世界では「ワンネス」という言葉が使われます。
全ては一つ。ということらしいんだけど、そうはいえ、たとえば隣の家のおじさんやTVで国会答弁してる政治家や官僚も私と同じ存在って言われても、なかなか実感しにくいわけで。

とか思ってたけど、実は自然に部分部分では実感してるのだなあと。

たとえばチューリップに申し訳ない気持ちを持つ。
ツバメの巣で鳴き叫ぶ子ツバメ達に、温かい気持ちになる。
遠い国の戦争のニュースに、そこに生きている人々の苦しみは如何ばかりかと思う。
子供の誕生など、友人知人の嬉しいニュースに共感して喜ぶ。

などなど、自分以外の他の人や物事に対して何かを共感できること自体、よく考えたら、私たちがワンネスである一つの証拠と思える。

とはいえ、宇宙全体との一体感を感じていたのはチューリップと共にいた一瞬だけで、すぐに脳内の孤島〜私という個人〜に戻ってきたんだけど(笑)。

まあでも一瞬でも垣間見せてもらうと、ワンネスなんだと納得できる。
それは地球からみると、太陽が動いてる天動説に思えても、実際は地動説である…というのと同じように。
一瞬だけ大気圏を脱出して、それを体感したような。

ふと気がつくと、そんなこんなで、あの苦手な感情にも優しく向き合えていたようで。
いつのまにかハートにとろりと溶け去ってました。

と。チューリップの花を持って佇んでいた、大雨の庭先での出来事でした。
大きなオレンジのチューリップさん、貴重な体験をどうもありがとう。
していることに言葉をあてはめる。
ふう。というわけで、先日ポール・ソロモンを紹介しましたが、
実はこっちの話を書くつもりだったので、第二部ね。

そのポール・ソロモンの本の中に、
「していることに言葉をあてはめなさい。そうすれば変えられる」
という、わかるようでわからない、もどかしい言葉がありました。

メモったまましばらく放置してましたが、最近になって再浮上。
ようやく、薄々わかってきたような。

それは、こんな事があったのがキッカケです。

ある神社で、丘の上にある本殿まで石段を登ってるとき、その古びた石段のひとつに「潔」という文字が彫ってあるのが目にとまりました。
何度かお参りしている神社だけど、この文字に気づいたのは今回初めて。
しかも他には、文字が彫ってある石はないの。

「へー、”潔”か〜」と、思っているとき。パッとメッセージが降りてきました。

「潔くあれ」と。

その瞬間。
あ。もしかして私、潔くないんだ。
と、気づきました。

その途端、自分の内面の、いままで無意識だった部分にシャラララっと光が差し込んできて。
自分の在り方への認識に新しい角度が提供されたことで、よりクリアに、高みから自分の状況を見渡せるようになってました。

一瞬のタイミングでやってくる、予期せぬ意識変容。
時々こんな瞬間があるから、人生楽しくて。


でもね。ちょっと客観的にみると、
じゃあ何で、これまで何十年も生きてるのに、潔くないことに気づけなかったのか。という。

それはたぶん、
「潔い」(あるいは「潔くない」)っていう言葉が、私の心の辞書に載ってなかったから。

もちろんこの日本社会に、その言葉があることは知ってるよ。
でも自分がその言葉を自分らしく咀嚼吟味して活用したことがない。ということ。
意識化してなかった。理解度が弱いというか、体験が伴ってないというか。

だから、潔いか潔くないか、という判断や選択をした記憶がない。
それに近いことをする場合、これまでは他の類似する言葉で行われてるわけです。

「私は潔くない」と同じような意味のことを、自分に近しい単語で言うと、
執着する。決断できない。諦めが悪い。手放せない。…とか。
これらは全部、わたし的には、ある角度からみると「潔くない」という言葉にも集約できる。

決断できなくて、どの服にしようか、どのメニューにしようか、とか悩んだりするのも、
一度決めたのに「もしかしてあっちが良かったかな」とか考えるのも、
そこに「潔いかどうか」という基準が出てくると、今までとは少し選択が変わってくる可能性がある。

いつものパターンでグズグスしていた状況の、その中のいくつかは「潔い」という言葉が出現してきたことで、角度を変えてみることができる。
「潔くありたい」と感じるが故に、きっぱり選択できるものが出てくるはず。

「この服、もう使わないけど、新しいし勿体ないな〜」と執着してるときに、
「それって潔くないよね」と気付けたら、潔くなりたくて(笑)手放せそう。

言葉って面白い。私は言葉が大好きだ。
たしかに言葉というのはその性格上、どうしても表現が限定されてしまうし、制限のあるツールかもしれない。

でも人間は言葉がないと意識化できない。

ある言葉が指し示す「何か」は、その言葉を意識してなければ、自分にとっては存在してないのも同様だ。

意識化できないと、その言葉にあてはまる行為や状況、事象を自主的に選択できないのだ。

逆に、知っていれば、その行為や事象を選択できる。

意識化している言葉、体験とつながっている言葉が多ければ多いほど、その人の生きている世界は豊かで広いのではないかと思う。

と、そこから気になってメモしていたポール・ソロモンの言葉が繋がります。

していることに言葉をあてはめなさい。そうすれば変えられる。

変えようと思ってもなかなか変えられないことが、言葉をあてはめる=ある体験を意識化して気づいて認めることで、状況を見る角度が変わり、あるいはクリアになり、必要であれば変化が訪れる。

今回の場合は「潔い(&潔くない)」という言葉ね。

ポールよ、そういうことだったのか〜!と、今の私なりのレベルで理解できました。
もちろん、もっともっと深い理解もあると思いますが、今日のところはこれでよし(笑)。

これからも自分の身についた言葉を増やしていきたいな。
今は理解度の弱い言葉が、体験や気づきと結びつく毎に、自分や世界への理解が深まっていくのだと思うとワクワクします。

まだ見ていない深遠な世界が、実際には「今ここ」に既にあるのだと思うとね。

そしてこれは、タロットや数秘の対面セッションのときにも起きていることかな、と思いました。

その人にとって意識化できてなかった言葉、心の辞書に載ってなかった言葉をお届けすることで、必要な気づきが起きて、意識変容への扉が開く。

それは「今ここ」にあったのに、見ていなかった世界が開く。ということでもある。

セッションが終わって占猫のドアから出てみたら、世界はセッション前とは違うものになっていた。
…と、いう体験をシェアしていただくことがあるのですが、それはこういうことかもしれないなあと。

私も心の辞書に言葉が増えて、少しづつ意識変容しているのかな。
これからもいろんなメッセージに耳を澄まして、いつでも受け取れるように静かな心でいられたらいいな。

いつも、たくさんの気づきをくれる世界に感謝します。
それをやって、私は幸せになれると感じるか?
…という問いかけが、朝まどろみの中にポン!と、どこかから放り込まれました。
えっ?と目が覚めて。

それをやって、私は幸せになれるのか?

ふーん、何の脈絡もなく降りてきました。
これ、私にとっては使える問いかけですね。

というのも、私は何かを選択したり、決断するのが苦手だから。
何かをしたいかしたくないか、考えても分からないときがある。

実はそれって、したいかしたくないか?と表では言いつつ、本当は「どちらが安全か」とか「失敗しないか」とかを基準に無意識に考えてたりするの。
で、そんな”先のこと”は、わかるわけないから選べない(笑)。
この一連の思考パターンが無意識だから、必ずどこかでバグってフリーズして選べなくなる。

したいかしたくないか?は「今のこと」だけど、安全か?失敗しないか?とかは「やってみて後からわかること」だから。

で、そういうとき意識的に気づいて、
「したいかしたくないか」がわからないときには、
「それを選んで私は幸せを感じられるだろうか?」という視点で選んでみる。
安全か?とか、失敗しないか?ではなく。
とてもシンプルでいい感じ。

この問いかけをして、そう思えないことは意識的に手放すようにする。
幸せを感じられたり、あるいは今はわからなくても、
幸せになれるんじゃないか?と予感されたりするものを、意識的に選ぶ。

そうすれば、もし後からその選択より良さそうなものが見つかったとしても、
「でも、あの時はこれが幸せだと感じたよな」と、自分の選択に責任をとることができる。

たとえば、お菓子を夜遅く食べたくなったとして。
「どちらが幸せだろう?」と問いかけてみたら、ある日は食べたほうが幸せだろうし、ある日は食べないほうが幸せになれそうと感じるだろうし。
毎日、毎瞬、基準は違うと思う。日によって幸せの気分と形は違うから。
ざっくり「夜は食べるべきではない」とか決めてしまうのは、人生には大雑把すぎる気がする。

そもそも、私たちが何らかの活動をする理由って、すっごくシンプルにまとめちゃうと「幸せになるため」なんじゃないかなあ。
仕事するのだって、何かに頑張るのだって、怠けるのだって。

たとえば、仕事で上司に頼まれて残業をやるのも、評価を下げたくなかったりとか波風たてたくないからとか、つまり幸せになりたいからやっちゃうんだけど、もし度が過ぎてると感じたら、その日はちゃんと断ったりね。気分は毎日違うから。

そこをちゃんと、毎回丁寧にハートに確認する。ルーチンにしない。
それによって、漠然としていた行為の一つ一つが、その時々に応じた、幸せのための行為になっていくのでは。
たとえ歯磨きでも、フライパンを洗うことでも。苦手な誰かと話し合うことでも。

「幸せになれると感じるか?」
この問いかけで、ほんの少し、幸せの輪郭がくっきりしてくるような。
そんな気がします。

朝から、突然のメッセージに、起きてすぐ、ざっくり書いてみた。
なぜなら「今すぐ起きて書くのが幸せな気がしたから」。

さすがに後でもう少し言葉を調整するけどね。少し余裕のある朝でよかった〜。
あ、余裕がない日だったら、幸せに感じないのか(笑)。
むさぼらない心。
この前の京都、平安神宮にお参りしたとき、おみくじをひいてみた。
普段は年始に引くくらいだけど、ふと珍しく思いついて。

いろいろ書いてある中で「むさぼらない心」という言葉が印象的だった。
「むさぼらぬ心をおのが宝ぞと思へ」と。

私は執着しやすい性格だ。
服や本といったモノ系はもちろん、自分の考え方などについても固執しやすい。
でも執着するってことは、見方を変えると、そうやってわざわざしがみつかないと手元に残らない程度の、本当は特に必要ないモノゴトなんだろうな。

…と、頭ではわかってるのに、なぜかしちゃうわけです(笑)。

そしてこの「むさぼらぬ心」、執着を手放した心ってことだな〜と思いました。
結局、むさぼってるから執着してるわけで。

意外と、同じようでも言葉をちょっと変えるだけで、頭の中に新鮮な風が舞い込んでくる時があります。

「執着する私」って、私にとってある意味フツーなので(笑)、頭の認識としても慣れっこになって「ま、仕方ないよね、そういう人だし」とか思うけど、
「むさぼってる私」という単語に変えて、新しい視点で見ると「なんだかすごい貪欲そうでヤだなあ(汗)」と感じ、執着をあらためて減らしていきたくなる(笑)。

あんまり意識してなかった、私にとって新しい単語がはいってくると、今までとは違う視点で自分が見えてきて面白い。

これからは何かに固執している予感がしたら、
「自分はそこでむさぼってないか?」と問いかけてみよう。
「執着していないか?」という言葉だと手放せなかったモノも、貪ってるのがイヤで手放せるかもしれない。

「むさぼらない心」、世の中には前からあったけど、私の辞書になかった新しい言葉を届けてくれて、神様どうもありがとう。
森の唄
家の近所のとある森の木立から聴いた唄。
最近感じていることと、いろいろリンクするのでメモ。


森の子よ。感じてごらん。
あなたの肉体は、私たちと同じモノで出来ている。
私たちは同じ地球の子である。
あなたは、あなたであり、森である。

そして、あなたの肉体には、あなたの美しい魂が棲んでいる。
肉体の中でくつろいでいる魂を感じてごらん。
森に棲む生命たちが、森にくつろいでいるのと同じように。

美しい魂は、いつも歓迎している。
あなたの肉体に起きてくること、すべてを。

喜びも、悲しみも、楽しさも、苦しさも、快楽も、痛みも。
どんな経験も感情も、あらゆることを味わいたくて、今ここにいる魂を感じてごらん。

途切れることなく立ち上がってくる、新しい世界、新しい体験を、
肉体にくつろぎながら愉しんでいる、美しい魂を感じてごらん。


このメッセージが来てから「自分の身体を森にイメージして、その中でくつろいでる気分で外の世界と接している私」を楽しむのがマイブーム(笑)。

これやると、常に「私」が意識され、私が観ている・私が聴いている・私が触っている…と、自分を自覚できるので、けっこう日々が瞑想的になる気がします。
時間をはずした日、三瀧寺へ。
DSCF4734.jpg
この前の7月25日は、マヤ暦の「時間をはずした日」のため、お店もお休みさせていただきました。時間をはずしておりました。

で、時間をはずして、久しぶりに三瀧寺に行ってきました。
ブログにも何回書いたか数知れず、というくらい大好きな三滝。
気持ち的には、毎週でも行きたいくらいなのに、
なぜかやっぱり、必要なときにしか行けない。不思議。

三滝はその名のとおり、境内に3つの滝があります。
自然の中を散策するうちに、気がつけばデトックスしている、という。
そして、行くタイミングのときには、ちょうど必要なメッセージがどこからか届くことがとても多いのです。

今回も、詳しく書くとキリがないので(笑)細かい内容は省略しますが、観音さまや滝から、いろんなことを伝えてもらいました。
大まかなことを書き留めておくと、
「過去の思いや経験は丸ごと忘れて、いつも「今の自分」だけで行動しましょう」
という感じ。
時間をはずした日っぽい。

なんとなく、漠然と、いろんなことを「覚えてなきゃ、忘れないようにしなきゃ」とずっと思ってる私がいる。

で「昨日のあれは結局どうしたかな」「この前考えてたアレやってないぞ」とか、
無意識に、日々マインドではそういう確認の思考が何度も繰り返しやってくる。
それによって、頑張って間違いや問題がおきないように自分を律してるつもり、らしい。

これ、結構な負担なのでは?
もともと考えるの苦手だから「やることリスト」みたいなメモに思いついたらほとんど書いて、忘れても大丈夫にしてるんだけど。
それでも、実は気がついてみると、何やかやと反芻してる。

そうすると「そうだ、今からコレをやろう!」と思いついても、
「いや、まてよ、そんな時間あったら、この前からやろうと思ってたアレをやったほうがいいかなあ」とか、マインドから横ヤリが入る。
で、迷ったりして、なんか人生フクザツになっちゃうの。

あるいは人間関係も過去の経験が入る。
わかりやすいのはダンナとか親みたいに長い付き合いの人。
今までの経験があるから「この人はこういう人」という先入観がある。
その土台をもとに会話したりしてる。
そして何かあれば「だって、この前はこうだったでしょ?」とか、過去の似たような状況と思ってることを引き合いに出してみたり。

おそらく、そうやって思考が過去を今を行ったり来たりするのが、もうどこかで面倒くさくなってたのだと思う。
そこに観音さまから指摘されて、無意識にやってた私に気づいてびっくり。
そうか、考えるの苦手なのに、それで余計しんどかったんだ。と。

よくかんがえたら、別に私の意識が過去の経験を忘れていたとしても、
私の身体は確実に、その実際の経験をして、その経験値が積み重なっている。
意識が忘れてしまったことで問題が起きたなら、それこそが今の私の現実であって、そこで体験したことを今後のための経験値にすればいい。

人間関係も。「こんな人」と記憶や経験が思ってるのは過去であって、今の目の前にいる人は、そこからまた変化している違う人なのだ。
だから、長い付き合いの人でも、初めて出会った人との関わりのように、いつも新鮮な気持ちで接していよう。
過去の行いや事実にとらわれず、今とその先を大事にしていこう。

だいたい、いい感じで人生が流れているのは、直観で動いたとき。
直観で動くときには、過去とかデータとかぜんぜん関係ないもんね。
わりと直観的に行動することの良さをわかってるつもりでしたが、
ぜんぜん無意識に不要なマインドをあちこち動かしていたのでした。いやはや。

そして三滝のスゴいのは、そういうメッセージを届けてくれるだけではありません。
滝のエネルギーで、それを実際に体験させてくれるのです。
本堂で観音さまから、そんな感じのお話をいただいたあと、
さらに山を登って一の滝へ。

滝の勢いの前にしばし佇むと、それだけで、過去のわずらわしい、あるいはどうでもいい記憶が洗い流されていく。
「過去の記憶とか丸ごと忘れても人生問題ないんだ」という気持ちにさせてくれる。
今の自分だけで行動しても大丈夫。
記憶があろうがなかろうが、過去に積み重ねてきた経験は体にちゃんと残ってるのだから、大丈夫。

ちょうど他の参拝客がいなかったせいか、ずいぶん長く滝の前にいて、まさに生まれ変わったようなフレッシュな気分になりました。
過去が流され、時間をはずした日に新しい(でも過去の経験はしっかり身についた)自分になれたような。

おかげでその後、一緒に行ったダンナと境内のお茶屋さんで会話してても、めちゃめちゃ新鮮。初めて会った頃のような気分で話せました。面白い。

そうそう、そのお茶屋さんにて、今回初めてモリアオガエルを目撃することもできました。お茶屋さんの目前の池にモリアオガエルが生息していて、運が良ければ木の枝に登ったカエルを店の窓から目撃できるのだけど、このお店には何度も来てますが、今までは見たことなかったの。
思ってた以上に大きくて、綺麗なグリーンのカエルさん。
そういうちょっとしたサプライズもくださる三滝の観音さま。気がきいてらっしゃる。
いつもありがとうございます。

と、そんな素敵な経験をした、時間をはずした日ですが。
あれからまだ二週間くらいしか経ってないにもかかわらず、また過去の記憶で動き始めてる自分に気づき(汗)。
まったくも〜と思いつつ、まあ気づくだけいいか。とも。
で、こうして書き留めておいて、ときおり読めば忘れずにすむかな?と。
ついつい過去にしがみつくのは仕方ないとして、なるべく今の自分を大事にしながら、過去を軽くしつつ、今年を体験していこうと思います。

というわけで、ちょっと遅ればせながら。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。




宮島に香りを奉納してきました。
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ハチロクの前日は、東京の友達ファミリーと一緒に宮島にも行ってきました。
久しぶりに、引き潮の大鳥居の外まで素足で出てはしゃいでみたりと楽しく過ごせました。
…とか、それも嬉しい記憶ですが、
このまえ宮島を訪れた時の、香りの奉納のことをブログに書こうと思ったまま、すっかり書きそびれていたのを思い出し。
記憶があるうちに書き留めておこうかと。


先日、お友達の創香家・なみきよしみさんが宮島のためのスペシャルな香りを創ってくれたので、厳島神社、弁財天、弥山山頂に香りを奉納してきました。

私はよしみさんの香りの大ファン。
私も意識変容のためのタロットをやってますが、
よしみさんの香りって、意識変容のための香りだと思う。
意識変容、大好き☆
嗅覚の刺激だからマインドをスルーして、問答無用で直接存在に働きかけてくれるのが楽しい。
そして彼女の香りはいつも素敵な物語とビジョンがある。

今回の香りがこの世界に降りてきた発端は、
親しくさせていただいている舞踊家の那須シズノさんが、今年の夏至の日、
ハワイ島のキラウエア火山で、日本人で初めて、火の神ペレに舞いを奉納することが決まったこと。
その話をよしみさんにつなげたところ、インスピレーションが降りてきて創られたのが始まりで。

火の神ペレにふさわしいと降りてきたのは、藤の花。
ずっと最高のタイミングを待って温存していた、311前に長老の大木から採取された藤の花の香りをブレンドしたのだそうです。

そもそも藤の花の香り自体、めったに入手できません。
しかも311前、原発事故の前の世界のエネルギーを持つ貴重な香り。
それをシズノさんに夏至の舞いの際につけて踊ってもらうことで、
ペレに地球平和と調和を祈ろうという。

「祈り」と名付けられたその香りは、ご縁のある人にギフトします…ということで、うちにも届いて。しかも、
「そっちに送ったのは、藤の花の香りは一緒だけど、宮島用にオリジナルで作ってるからペレのとはちょっと違うよ〜」と。
どうやら「祈り」の宮島オリジナルバージョンらしく。

とても甘く艶やかな藤の香りと、爽やかさ涼やかさが同居した美しい香りです。
そう言われてみれば、火のエネルギーとともに水のエネルギーも感じられ。
不思議な融合感が舞いあげてくれます。

そして、
「この香りを『時間を外した日』までに宮島に奉納する」
というミッションと一緒にやってきたのです。

どうやらこの香りを宮島に奉納することは、今後の大きな流れの中でも大事な布石らしく。
よしみさんの香りファンとしては、今回の香りの物語の中に、私までインスピレーションに含まれているのは楽しいことで。

人生の中で(自分にしっくりくる)ミッションが届くという体験自体がめったにないことなので(笑)、冒険気分でワクワクとクリアさせてもらいました。

今回のミッションでもっとも困難かと思われたのは時期の締め切り。
時間を外した日までには関西出張などもあって、普段よりも予定が詰まっていて。
行ける日時が限られた上、まだ梅雨明けもしてなくて。
どしゃぶりの中の奉納はちょっとね。

が、たぶん大丈夫だろうな〜とも思ってました。
というのも、よしみさんの香りは宮島によく持っていくのですが、
これまでの香りも厳島神社の姫様たちは、いつも喜んでくれているのです。
それが宮島バージョンの香りならなおのこと、きっと道を開けてくれるだろうと。

そんなわけで雨が降り続く中、落ち着いてタイミングを見計らってたら、やっぱり来ました。
どしゃぶりの雨が午前中に降りやんだ店休日、7月1日にミッション実行。
おかげさまで雨も降らず、暑くもなく…という心地よい奉納日和に。
しかもシーズンオフの雨上がり直後、ビックリするくらい人が少なくて。
さすが姫さま方、絶好の機会をありがとうございます。

それにしても驚いたのは、宮島バージョンだけあって、
宮島では家で香りを聴いたときとは、まったく違う感覚になったこと。
潮の香り、原生林の香りと相まってパワー倍増。
深みと広がりが一気に駈けるように展開していきます。
遠く彼方までトバされながら、311前のエネルギーに乗って、
地球の平和、宇宙の調和をお祈りしてきました。

香りをまとって森の中を歩いていると、いつのまにか感覚が変容してクリアになって。
弥山を歩いても自然からの呼びかけがなんとなくいつもと違う。
普段とは違う次元で、宮島の森のエネルギーと接したような気がします。

弥山山頂に着いたのは夕方4時過ぎ。
ロープウェイの最終に合わせて、ほんの30分くらいしかいられなかったけど、
香りの奉納には充分。
弥山の力強さと優しさが、藤の花ベースの香りとよく似合う。
存分に宮島全体へと頂上から麓へ、祈りとともに香りを降ろしていきました。
宮島から、地球へ宇宙へとつなげていただいて。

そして、地球とつながった時、
地球が私たち人間を、心から信頼してくれてるのを感じたの。
あけっぴろげの、無条件の信頼。
もちろんあなたたちは調和していくし、大丈夫よ。と。

言葉ではない、その感覚。エネルギー。信頼の感覚。
あまりの信頼っぷりに心打たれ。
そして同時に、私自身は、そこまで自分や人間を信頼してないことにリアルに気づく。
だって、こんなにスッキリあっさり「大丈夫☆」なんて言っていいの?
私たちは、というか少なくとも私は、戦争とか自然破壊とか、原発事故とか起こしてしまう人間として地球に対して罪悪感みたいなのを持ってたと思う。

でも地球は、こんな私たちを優しく包み込んで、無条件に信頼してくれる。
まさに「母なる地球」なんだなあと。なんか泣けてくる。
私からみると、人類はその信頼にまだまだ応えられてない気がしますが。
でも。まずは人類よりも私だ。
私がまず自分を信頼することだ。まず自分。
そして同時に他者を信頼することだ。
自分を信頼してないと、それだけ分しか他者も信頼してないってことに気づいた。

今回、地球が教えてくれた、あの感覚がきっと「信頼」。
あの感覚に届くよう目指したいな。
信頼していこう。自分を、人を、そして世界を。

そう。信頼して寛いで。そして祝い、祈りなさい。
祝福こそが調和を引き寄せます。

と、地球とつながった嬉しいひととき。
香りの奉納による、素敵な1日でした。





怒涛のハチロク、フルコース。
戦後70年という節目でもある今年のハチロク、8月6日。
東京の友人が、小学生の子ども2人と一緒に
「広島で子どもたちに平和の大切さを感じてもらいたい」と遊びにきてくれた。

となると、おもてなしはハチロクのフルコース体験。
朝の式典と、平和資料館見学と、慰霊碑参拝と、夜のとうろう流し。
広島在住だとフルコースでは滅多に動きません。
こうして来客があればこその体験をさせてもらいました。

平和記念式典は、広島に来た5年前にご挨拶のつもりで参加して以来。
尋常ではない街中の混雑で、予定より到着は遅れましたが、
そのぶん8時15分の黙祷は、ちょうど原爆ドームの前でぴったりのタイミングになりました。

あいかわらず、ハチロクの空気はやさしい。
もちろん過去に大変なことがおこり、悲しみとか、苦しみが生まれ、今も言葉に尽くせない辛さとともに生きている方々もいらっしゃる。
でもなぜか、この祈りに充ちた日の祈りの空間では、私はいつも優しさと祝福に包まれる。

黙祷してると、
「平和でよかったね。ずっとずっと大切に育んで広げていってね」
と、ゆったり柔らかにハートを包んでくれるような感覚に抱かれて。
あまりのソフトで優しい体験に、涙が自然にあふれてくる。
平和公園でこのフィーリングを感じるたび、この感覚こそ「慈悲」なのでは、と思う。ハチロクはいつも私に優しい気持ちを思い出させてくれます。ありがとう。

式典は70周年だからか、5年前よりも人が多く、式場になかなか近づけません。
が、子どもたちに雰囲気を味わってもらいたくて、最後ごろになんとか椅子に座って体験してもらうことができました。

慰霊碑参拝と資料館見学も他の日なら簡単ですが、ハチロクだとどちらも長い長い行列です。この酷暑にも関わらず。
政治面などで不穏な動きも多い昨今ですが、
こんなにたくさんの人たちが平和を願っているのだと、目にわかりやすく頼もしく感じられました。

資料館では混雑のなか、広島がどんなに悲惨な体験をしたのかをリアルに感じてもらえて、子どもたちも真剣な表情になっていました。
そんな広島の事情を知ってもらった上で、慰霊碑参拝へ。

実はここも、私にとっては優しい気持ちにさせてくれる静かな場所です。
あんなに大勢の人が周囲にいるのにお祈りしてると、シン、とした静寂に入ります。
全てを信頼できる気分にさせてくれます。
今回も久しぶりに参拝したのですが、
「この世界には何も問題はおきてないんだよ」と、優しいひとこと。

この世界には何も問題はおきてないんだよ。
寛いで、あるがままを受け入れてごらん。
そのとき現れる成したいことを、ただ成せばいいだけだからね。

そんなことを、この暑くて輝いている、青い空の下で伝えてもらったような。
ふと目をあげると、緑の豊かな美しい公園。緑の向こうにはビル群も。
あんな想像を絶する体験をしたこの場所は、
苦しみを背負いながらも生き残った人たちの力で、こんなに立派な街に再建されて。
突然、命の力強さに圧倒されて、胸がキュウって熱くなった。
ハチロクはどうも涙もろくなって仕方ない。

今も世界のあちこちで紛争が起きていて、壊滅状態の街がいっぱいある。
そんな街の人々からすると、広島は復興の象徴だと思う。
あの哀しみから立ち上がって、こんな街を再建することができるのだと。
そんな礎をつくってきた人たちの想いが、力強くもフワリと柔らかくハートに入ってきて。

受け入れたら、現れた。成したいこと。
あとはただ、この素晴らしい平和を維持して、育んでいくだけなのだ。
そのために私にできることをできる範囲でいいから、焦らずきっちり、丁寧に心をこめてやっていくだけ。

たとえば…こうして思ったことを言葉にしてシェアしてみる。
お仕事で、毎日1人1人の方と一期一会を歓び
言祝ぎ師として
「あなたでいてくれておめでとう!」
という魂からのメッセージを日々お伝えしていくこと。

その際に、私がいつもハチロクに受け取っている、あの柔らかい優しさのフィーリングそのものをお伝えできれば一番いいのだけど。精進しよっと(笑)。

と。そんなこんなでまた長くなったので、とうろう流しは、次につづく(笑)。

追伸。
私自身が思い出すために、以前のハチロクに降りてきたメッセージをここに再録します。あの優しい気持ちが何度もあふれてくるように。

☆☆☆

平和の子どもたちよ、
あなた方は私たちの生まれ変わり、平和の使者である。

私たちがこの地で犠牲になるのとひきかえに手に入れた平和を、
楽しみ、享受し、感謝し、維持し、育てる者たちよ。

平和を育てる者たちよ、心を平安で充たしなさい。

世界の平和を育む力は、一人一人の心の平安にある。

世界で起きることに対し、恐れることなく、不安になることなく、
怒ることなく、悲しむことなく、充たされていなさい。

笑いなさい、笑い飛ばしなさい、祝いなさい、遊びなさい、歓びなさい。

自分が今できることを、ただ、やってごらん。

一人一人が、今できることをする。
それは平和を大切に育むこと。

平和を楽しみ、喜び、大事にする心さえあれば、
恐れることはなにもない。

あなた方は平和の子ども、平和の使者、
私たちの生まれ変わりなのだから。
梅の花から届いたメッセージ
近所の神社までのお散歩コースに、数本の古木の梅の木があって。
それがちょうどいい感じで咲き始めた頃のことです。

この時期その近辺は、梅のほのかな薫りがやさしく広がって、私のお散歩の楽しみの一つとなっています。

この日もしばし、梅の木の下で、可愛い花たちを愛でてました。

まだ咲き始めたばかりで、蕾がフワリとほころんでいく気配の何と愛らしいこと!
その蕾たちの初々しさ、花開くさまが美しくて。
心の底からキュウっとなるほどに愛しい気持ちを味わっているときに、その蕾たちから声がかかりました。

「あなたは、私たち蕾にはそんなに優しくしてくれるのに、
どうして自分の蕾の部分は「未熟」といって責めちゃうの?」

…え?…あ!…ほんとだ…(汗)
私は自分に対しては、この梅花の蕾を想うほどには優しくしてあげてないことに気づきました。ビックリ。

わりと「自分大好き!」なほうだと思ってたんだけど。
いやいや、全然。責めまくってました。梅の花のおっしゃるとおりです。

たとえば、ちょっと前、少し風邪気味だったときでも、
慈しむよりは「早くちゃんと治ってよね!」みたいな感じでキビしく治そうとしてるし。梅花に接するようには接してない。

不足な部分や、未熟なところに対して、なぜもっとちゃんと成熟しないのだ!と。
早く「治したい」とか思っちゃってる(笑)。

「でもあなたがいう未熟っていうのは、蕾なんじゃないの?
今から咲くんじゃないの?可愛くないの?」

うーん、おっしゃるとおり。
可愛くあどけない蕾たちに、すっかり一本とられました。

そうか、「未熟」というのは、これから育つのりしろのある「蕾」とも言えるんだな〜と。

そんなことを教えてもらった、ある日の散歩道での出来事でした。

雨のハチロク。
雨のハチロクは珍しい。
たいがいの8月6日は、その当時と同じ様にカッと日射しが照りつけ、クラクラするほど暑いのです。

でも、たまにはいいね。
なんだか、いろんなものがキレイさっぱり流されて、清らかな感じ。

雨でも晴天でも、ハチロクの広島には、祈りのエネルギーが充ちてます。
それは広島に来て以来、毎回感じること。
悲しみとかではなく、感謝と慈悲に充ちたふんわりした空間。

だからいつもハチロクには優しさを思い出させてもらえます。
ついつい日常の忙しさにまぎれてしまうと、繊細なものは忘れてしまいがち。
優しさに、そっと感覚に触れてもらうことで
「ああそうだった、優しさってこんな感じだった!」とハッと思い出せる。
さらに慈悲とか謙虚さとか、いろいろ気づける場になってる。

きっとこの日、広島全体が一種の聖地になってるのだと思います。
世界中のあちこちで、平和を思う人たちがヒロシマを思ってくれているのだものね。
そういう、人の思いが持つパワーと美しさを感じられるのもハチロク的。 

8時15分に黙祷する。
毎年のように降ってくる、優しい優しいメッセージが今年も届く。
それは、降ってくるフィーリングさえ本当に柔らかいの。
ふわっと羽毛に包まれるような感覚。
私は、きっとこれが慈悲なんだろうなあ、っていつも思う。



いつも喜びのなかで生きていてくれてありがとう。

あなたたちが手に入れた平和を、たいせつにたいせつに、やさしく育んであげてね。

そうすれば、もっとたくさんの喜びを実らせることができるから。



こちらこそ、いつもメッセージをありがとうございます。

平和というものは、とても繊細なのでしょうね。
ほっといても育つような、雑草のような強さはない。
「誰かが手入れするんじゃないの?」では育たない。
みんながいつも注目して、丁寧に手入れして、大切にしてあげないと枯れてしまう。
美味しい実をいただいてるだけじゃなく、育んであげる気持ちがないとね。

いま、私たちがしている、あらゆる行為におけるベースの安心感は
平和があるからこそ。

食事も、猫と遊ぶのも、海に行くのも、読書も、恋愛や仕事で悩むのも、すべて平和をベースにした行為。
もし今のガザのように「いつ空爆が行われるか」という状態がベースだったら、同じ行為であっても、全く違った在り方になる。

今の私たちのあらゆる行為は、平和がないと味わえない。
でなければ、すべてが恐れの中での行為になりかねない。

つくづく、当然だと思っているこの平和を、あらためて思い起こし、大切にはぐくむ気持ちを持たなきゃな〜と思いました。

とか、書いてるうちに雨はあがり。
曇り空とはいえ、夏らしく賑やかな蝉しぐれをたっぷり浴びてます。
これを、こんな気持ちで味わえるのも平和だからこそ。でしょうね。

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