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3日前から答えは用意されていた。
占猫の洗面台にある蛇口は、カエル。
カエルさんのモチーフが取っ手についてます。
媚びてない表情や姿がお気に入りですが、
最近、ちょっと水漏れが発生してきて。

些細な水漏れだけど、何年か前、ビルの上階での水道管破裂事故によって大変な目に遭ったことのある私たちは、水難に敏感なのです(笑)。
いや〜、あの時はどうなることかと。
店存亡の危機でしたが、本当に「これは神様に守られてる!」としか言いようがない状況によって何とか凌ぎ。

と、また話がそれてる。今回はカエルさんの水漏れでしたね。戻します。

で、水道工事の方に見ていただきました。
やっぱりまだ症状は軽いとのこと、部品を交換するくらいで済みました。よかった。
「ただ、この蛇口、おそらく使い方がわからなくて、色々な方向に動かそうとするお客さんがいるんじゃないですかねえ。丁寧に扱ってもらうといいですね」と。

なるほど。最近はレバーを上にあげたりする蛇口もあるものね。
カエルさんを見て、戸惑う方がいらっしゃるかもしれません。
実際は、普通の蛇口にカエルさんがついてるだけなので、グイッとひねるだけなのですが。

確かに、初めて見た人にはわからない可能性があります。盲点でした。
そこで蛇口の横に、カエルさんの取り扱い説明書をつけることにしました。

ちょうど予約が入ってない時間帯があって、さっそく作成開始。

書く内容はまとまったものの…なんとなく、文章だけだと、何か、ちょっと…。
そうそう!カエルの絵をちょこっと入れてみたらどうだろう?
え〜?でも、どんな絵にしたらいいかなあ…。う〜む。

などなど、カエルのイラストをどうしようか、と思い始めた矢先に。
「宅急便で〜す!」
と、勢いよくお兄さんが荷物を届けにきてくれました。

その荷物、さっそく開けてみた瞬間、びっくり!
目に飛び込んできたのは、カエルのイラストの箱だったのです。

えええっ?
まるで、今さっきの私の問いに、即座に返答をもらったかのようなタイミング。
「こんな感じのカエルがいいんじゃない?」といわんばかり。
しかも「そうそう、こんな感じがいいと思う〜!」と、しっくりくる絵柄で。
ものすごいシンクロだ。

これ、私の友人が出張先から送ってくれたお土産でした。
カエル型のおまんじゅうで、包み紙もカエルだったのです。

彼女が送ってくれたのは、3日前。
気が利いた人なので、お届けはうちの定休日を避けて本日指定。
そして宅急便のお兄さんは、ちょうどこの時間に配送してくれて。

つまり私の視点からすると、私がこのタイミングで「カエルの絵を描きたいがどうしよう?」という気持ちになることに対して、3日前から答えが準備されていたということ。

こういうシンクロを体験すると、先のことなんて考えなくても、きっと必要なことは準備されていて、起きることが起きるようになっているのだなあと、あらためて感じます。
人生を信頼できるというか。

ついつい、先はどうなるんだろう?とか、未来に起きることを予測しながら(でもそれは不可能なんだけどね〜)自分の行動を変に規制・抑圧してしまうことがある。

でも、必要なことは準備されているのなら。起きることが起きるなら。
不安や、まだ見ぬ将来のために、自分をコントロールする必要はないわけで。

たとえば友人は、3日後にカエルのイラストで悩む私を想定するのは不可能でした(笑)。
ふと送りたくなったお土産を、送りたい感じで送ってくれただけなのです。
それがこんな楽しいハプニングにもつながって。

先を恐れることなく、人生を信頼して「今、したいこと」を選択する。
それが結果的に、本人の想定するしないに関わらず、自分や誰かや社会や世界や宇宙のためになっているのではないか。
それがこの世界を循環しているエネルギーの自然な有り様なのではないか。

とか、そんなことを感じられた面白い出来事でした。

さっそく包み紙を参考にイラストを描き。
作業終了後は、頑張ったご褒美にカエルまんじゅうでお茶タイム。
ほんわか満ち足りた時間になりました。

さらに今回の出来事を、もう少しのあいだ思い出して楽しめるよう、カエルの包み紙を今読んでいる本のブックカバーにしてみたりね。

さて、そんな物語の中で描かれた説明書は、すでに洗面台の横へ。
カエルさん蛇口、占猫の中でもかなりの長老です。
ご来店の際、洗面台を使うときには優しく扱ってあげてくださいねっ☆
書きたくなるまでは
この前、京都の話をアップしたとき確認してびっくり。
前回アップしたのはなんと8月半ば。もう2ヶ月近くもブログに触れてなかったなんて。
いやはや、ご無沙汰しております。

んー、確かそのころから仕事でバタバタしてるうち、いつのまにかネットに向かう気が失せてしまってたのです。自然消滅。
自然消滅なので、ネットにアクセスしてないこと自体にしばらく気づかなかったのですが、あるときふと「あれ、ブログ書いてないぞ」と思い出し。
でも、そのときにはなぜか全然書く気になれませんでした。

いつも占猫の店内にまったり座ってるだけの私が、外に向かって発信してるのはこの日記くらいのものなので、いちおう「生きてますよ〜」という生存確認がわり(笑)に定期的に書きたいという気持ちはあるのです。

それで「書かなきゃ!」とか思うのだけど、頑張って無理やり書こうとしても、どうやっても書けない(笑)。
で、しばらくもがいてましたが、あきらめました。
ブログなんてもともと書きたいから書くものであって、書きたくないのに書いたら、何かが違うような気がして。

「書かなきゃ」じゃなく「書きたい」と感じるまでは放っておこう。

そこからはすっきり腹をくくって、ブログのことは忘れて日々の生活を送っていたわけですが、この前、京都から戻ったらふと書きたくなって「あ、書けた」。と。
表現は、自然に出てくるのがやっぱり心地いい。

にしても、なんで書けなかったのか。
おそらく、そうなる前は「〜しなきゃ」という発想で物事をこなす場面が多かったのでは?と思いました。

私は支度とか準備とかが苦手で、とっても時間がかかります。
ちょっとばかり忙しくなっただけで、時間に追われてしまうのです。
そういうとき「早くやらなきゃ」「片付けなきゃ」「頑張らなきゃ」と、自分を追い込んでコントロールしようとしてたかも。

これは短期間なら有効な手段だけど、結局コントロールしてる間は、ずーっと気持ちが焦ってるので緊張して疲れ果てて、長期的には動けなくなってしまうのです。

今回たぶんもう「〜しなきゃ」という言い回しに飽き飽きして、疲れて、アレルギーになったんだと思います。
「しなきゃ」という形で思ったことにはテコでも動かないぞ!みたいな(笑)。
それで「書かなきゃ」に反発して、全然気持ちが向かなかったのではないかと。

しなきゃ、しなくちゃ、という言い回しで行動すると、日常を無事に過ごすことはできるものの、心が満たされることは少ないように思います。それで心が乾いちゃう。
達成感はあるかもしれないけど、それって、したいことをした時の満足感とはちょっと違うかも。

なのにけっこう無意識に、思考の癖でいろんなことに対して「しなきゃ」と思ってる。
しかも意識的になって気づけば、意外と「したい」に変換できることは多いのに。

たとえば、前の用事が押してしまって、開店時間ギリギリにお店に着きそうなとき。
つい「早く行かなきゃ!」とか自動的に思ってる。すると焦る。いろいろ忘れ物したりする(笑)。

でも、意識的になってみると、本当に思ってるのは「早く行きたい」なのにね。

早く行きたい。お客さんをお待たせしたくない。
「したい」に変換するだけで、緊張と焦りがなくなって「しなきゃ」のときより落ち着いて冷静に状況に対応できてくる。

「〜しなきゃ」は、自分を責めてる感じもあるから、苦しいんだろうな。
そのうえ「しなきゃ」にアレルギーな私は、反抗しちゃう。
ヘタすると「早くいかなきゃ」と考え癖で自動的に思いつつも、だからこそ無意識に反抗して、わざと遅く行きかねない(汗)。

これ、実はずーっと昔から延々と、やっては気づく…を繰り返している私の考え癖。
こんな風に日々の生活の中で、いろんなことが起きては、また忘れた頃に気づく。
今回の「ブログ書けないイベント」のおかげで、またこの思考癖に振り回されてたのに気づけてよかった。
延々と繰り返しながらも、少しは癖が軽くなってるといいなあ。

また緊張や焦り、心が何かに抵抗してることに気づいたら、
「もしや「しなきゃ」とか言ってない?」と自分に問いかけてみようと思います。
アリさんに教えてもらいました。
ある日。庭先をふと見ると、落ちている鳥の羽が、何だか不思議な動きをしています。
?と思って、よーく見ると。
なんと一匹のアリさんが、必死になって羽を運んでいるではありませんか!

ちなみに、この羽のサイズは小鳥クラスじゃありません。
カラスほどじゃないけど、結構な中型の鳥だと思います。
15センチくらいはありそうな。

つまり軽いとはいえ、アリさんの何十倍もの大きさの獲物を一匹で運んでるのです。
ええっ?とビックリして。
仕事に出る前の忙しい時間にも関わらず、もう目が離せません。

その必死っぷり、ひたむきさが美しい。
アリさんがその体軀の全力を挙げて頑張ってるのが伝わってくる。
手に汗にぎって、固唾をのんで、アリさんの様子を見つめてました。

(ていうか、これ巣穴の入口通るのかなあ…)とか、
(そもそも、アリさんにとって、鳥の羽って食糧としてどうなんだろう…)とか、
想いとしては、ツッコミどころ満載でしたが、
その全てを封じるかのような、そんなことを思ってしまった私を恥じてしまうような、毅然とした頑張りっぷりなのです。

と。そこへ一瞬の突風。
フォっと辺りを軽くひとなぎして。

あっけなく、瞬きのうちに、今まであんなに頑張って運んでいた羽もろとも(むしろ羽だったからか)、アリさんは50センチくらい吹っ飛ばされ、ひっくり返ってしまいました。
アリさんの体長からしたら、50センチってどれくらいの距離感なのでしょう。

またそこから、アリさんは何とかして体勢を整えようと頑張ってるのですが、
突然の災難に対応しきれず、あわあわしている感じが伝わります。

そのあたりで、私は出勤の支度に戻りました。
それ以上見届けるのが辛くって。

私は「一生懸命頑張ったのに、その頑張りが無に帰する」というシチュエーションが大の苦手。
もちろん、自分自身の体験としてもイヤだし、映画とかで見てても辛い。
人の話であってもしんどいのです。
当然、アリさんであっても苦しい気持ちになって、いたたまれずその場から逃げてしまったのでした。

で、見ないふりをして、支度に戻ってから気づきました。

つまり、そういうシチュエーションを私は受け入れてないのだ。と。


何であれ「受け入れてないこと」が人生に起きると、苦しい感じ、モヤモヤした感じになります。
なのでシンプルに言っちゃうと、人生を気持ちよく生きるには「受け入れてないこと」を減らすといい。
あらゆるものを受け入れるほど、人生ラクになるわけです(ちなみに「受け入れる」と「我慢する」は違いまーす。これ話すと長くなるので今日は以下略)。

でも、不思議なことに、あまりにも長い間ずっと人生で受け入れてないことは、
受け入れてないことが当然で普通の状態なので、その事実自体に気づきません。

私もこの「一生懸命頑張ったのに無意味だった」という状況とそれに伴う感情を、今まで受け入れてないことに気づいてなかったのです。
「ああ、辛いなあ」と言いながら、その場、その感情からそそくさとスグに逃げてしまう。逃げても苦しいだけなのにね。
その感情にフタをして押さえつけ、一時的には収まるものの、次回それが起こるとまた再発。

これを繰り返しつつ、人はある時、日々の生活を営む中で「自分が無意識に何をやっているのか」に気づく。

私もこの日、延々とフタして逃げてきた感情に、アリさんのおかげで気づくことができました。
こんな風に些細なことからも気づけるから、人生サプライズ。毎日油断できません(笑)。

そして気づくと受け入れることが可能となり(というか、可能になったから気づけたのか)、この状況や感情を好きになるわけじゃないけれど、それでも冷静にはなります。苦しくはない。


その後、通勤途上、アリさんに想いを馳せました。
今どうしてるかな。あの羽、結局どうしたのかな。

私はある一場面に遭遇しただけですが、
きっと自然界では、こんなことは日常茶飯事なのだろう、ということは想像にかたくありません。

毎日命がけで生きる動物たちには、そんな「一生懸命やったことが無に帰する」なんて、当然のように頻繁に起こってるはずで。
それを淡々と、困りもせず、受け入れて、生きているのだろうと。

地球に存在する無数の生命が「一生懸命頑張ったのに無意味だった」的なことに出会っている。
それどころか、もっと生死に関わるような命がけの状況も頻繁に出会ってると思う。

としたら、私という一個人における、そういう状況がどれほどの事だというのか。
アリだってクモだってカブトムシだって猫だって虎だって象だって鯨だって、みんなに起きてることだ。
…みたいな、そういう視点だと、私のちょっとした苦しみなんて、地球全体の営みの一部としてみたら、そんなに大したことじゃない気がしてくる。

何だか、予期せぬ展開から、大きな視点で自分自身と地球を眺める時間をもらえたのでした。
アリさん、どうもありがとね。
満開のさくら色
DSCF5863.jpg
横川の川沿いのさくら、今年の満開はちょうど満月の頃でした。

さくらが満開の時って、ふわりと、不思議な軽みを感じます。

つぼみの時はいかにも植物らしく、今か今かと咲くのを楽しみにしている、やる気マンマンの気配が愛らしい。
でも満開になると、突然、この世のものとはなんだか違う感じになる。

本当にふわっと、物質と非物質、現象と潜象、目に見えるものと見えないものの境にあるような。
そして見ている側も、ちょっぴりその世界に足を踏み入れた感覚になる。

あのさくら色が、細胞のひとつひとつに染み渡る。
そして私の身体も、少し密度が薄くなって、軽くなる。

満月の夜、少しだけ仕事帰りに川沿いの並木に立ち寄ってみた。

雨上がりでも、さくらはまだまだ満開で。
おぼろ月夜の中、雨が降ったからか、さくらの香りが馥郁と漂っていて。

仕事あがりで、直観使いまくって、まだ身体に降りきってなかったからか、
この世ならぬ気配と香りと、月のコラボで、ほんの数分だったのに異世界に入ってしまったような時間を過ごしました。

そして、今そろそろ、あちこちで散り始めています。
また現実に戻ってくるための、幻想的なまでに美しいエンドロール。

あの世界にずっといるのではなく、私たちは桜吹雪とともに、この世に再び舞い戻ってくる。

日本人は昔からこうやって、桜を水先案内に異世界を旅し、
そしてまた戻って、新しい四季を迎える準備を整えてきたのかしら。

…とか、ふと思ってみたりして。桜吹雪に触れながら。
切なさは、味わいきると感謝に変わる。
※これは「レヴェナント」というレオナルド・ディカプリオ主演の映画を劇場で観たとき書いた文章を、長すぎて放置してたのを思い出して発見。いまさら掲載〜。

☆★☆

私にとって「切ない」という感情は、
「好きだけど苦手」という複雑な立ち位置にあるフィーリング。
じっくりしっかり感じると、いいところに抜けていくんだけど、そこに至るまでがしんどいから、切なさがやって来たときに、つい避けてしまう。感じないフリをして押さえつける。
あと「悲しみ」もそうかな。しっかり感じて味わうと美しいとこに行くんだけど、なんせ悲しみだから。積極的に味わうにはハードルが高い感情でしょ〜。

そうして感じないでいると気持ちを抑圧してるので、どこか心が麻痺したようになって、感覚全般の味わいがボンヤリしてくる。感受性が鈍くなる感じ。

ときおり、そうなったときに自主的に気づいて、
「あれ、生きてる感じを感じにくいぞ。もしかしてまた無意識に切なさや悲しみを抑圧してるのかな?」と振り向くことは大事。

さて、そしてここ最近、自分へのタロットのメッセージで
「悲しみの感情を感じて」とか「泣いとけ」とか、言われることが多くなり。
でも、自覚がないの(汗)。抑圧しているであろう、悲しいことや泣きたいことが思い当たらない。
大抵は「あ、なるほどね」と、それなりに気づける範囲のことが出る場合が多いんだけど。

けど、タロットは今の私に必要なことしか言わないから。
おそらく何らかで、あまりにも身近すぎて気づけない部分なのだろうな、と。

私はタロットを信頼してるので、自覚がなくても、理由がわからなくても、アドバイスはなるべく実行するようにしてます。
なので今回も「自覚はないけど、とりあえずアドバイスどおりどこかで泣いとくか」と思ってました(笑)。

そんなタイミングで見に行った映画がレオナルド・ディカプリオ主演の「レヴェナント」。

これはとてもいい映画でした。
といっても、R15指定の、ある意味バイオレンスばかりの映画。
アメリカの開拓時代だったかな、北部の先住民を略奪しながら、動物を殺戮しまくり、毛皮などを大量に持ち出している時代の話で、実話をもとにしているとか。

私はバイオレンス系の、見てて痛々しい映画は本来苦手なハズですが、この映画は観た後に不思議と心地よいフィーリングが残りました。

ちょうどタロットに「悲しみを味わえ」と言われてたので、普段なら、その痛々しいシーンで起こる感情から逃げて、感じないフリをしがちですが、今回は意識的に、悲しみや諍い、暴力や死にしっかり向き合ってみました。

ネイティブと開拓者の間の争い。自然をどんどん破壊していく、動物を無残に殺していく有様、同じように人を殺していく有様…。
素晴らしい人となりの人物が出てきても、たいがいほとんどの人が、あっけなく、いとも軽々と殺されていく。

そういう切なさに、キリキリ痛みを感じながら味わってると、
タロットに言われてもすぐには気づけなかった、少し深いところにあった悲しみや切なさにたどり着いた。

気づいてなかった感情。
それは「人が人であることの悲しみ」とでもいうか。
人として生きることの苦しみ、みたいな、人間の根本の苦しみを感じている自分がみつかった。

有史以来、ずっと争い続けている人間。
どうして戦争や暴力はおこってしまうんだろう。なんて命はあっけないのだろう。
世界や人類全体に対する無力感や切なさ。
人が人である限り、必ず起こる苦しみや悲しみ。
なんて切ないんだろう。

これら誰もが感じるような感情を、心の奥底に抑圧していたことに気づいた。
だって、感じたってどうしようもないじゃん。って。
でも、感じてる…ね。隠してただけ。

タロットは、そういう普遍的な悲しみや切なさと、そろそろ向き合う時期が来ていたことを知らせてくれてたんだね。
自分自身の個人的な出来事や状況から悲しみを探していたので気づかなかった。

気づいてなかったけど、抑圧してるのは事実だから、なんらかの形で私の感情を制限していたのだと思う。

映画を観るうち、心の奥底に潜んでいたその部分を刺激されて、少しずつ氷が溶けるように涙がじわじわと勝手に滲んできた。

後半のクライマックスの頃には、すでに話のストーリーはBGM状態。
頭は話を追ってない。ただ眺めてるだけ。
映画が、純粋に感情を味わうツールと化してました。

そして、抑圧していた切なさや悲しみがかなり引き出され、たっぷり身体いっぱいに痛みを感じることで抜けてきた頃(感情は味わうと抜けるのです)、今度は、人の持つ美しさや優しさ、良心、強さなども映画の中から感じられるようになって。

愛や、美しさ優しさと同時に、恐れや憎しみや怒り、両方を持つ人間という存在。
これらを同時に持つからこその苦しみ。
どちらか一方だけなら苦しくないもんね。

そうか、人が人であることの悲しみを感じるのは、人の愛や美しさ素晴らしさを知ってるからこそ感じてしまうのか。

ほんと、だから人間なんだよな〜、人間ってこうなんだよな〜。と。

人間のその悲しみを感じることで、同時に愛を感じられて、
またその切なさを感じることで、それでもこうして生きることのできる世界への感謝を味わえて。

観た後にはすがすがしく、優しい気持ちになり。
おかげで「世界って素晴らしい!」という心地よい感謝にまで抜けていくことができました。

でももちろん、どの映画でもこんな風になるって訳ではありません。

個人的には、トートツに主人公の恋人が死んだりして、強引に心を揺さぶろうとする映画は好きじゃない。
あからさまな作為を感じると、素直じゃないから、
「ほーら、ここで泣いてごらん、泣き所だよ〜」みたいなシーンにくると、
「誰がそんなバレバレの手にのるか!」とか思っちゃって、受け入れられないの。
うっかりそういう相性の悪い映画を見に行くと、
悲しむところであえてグッと抑圧しちゃって(表面部分はもちろん泣かされちゃうよ。だけど奥の部分では心を開けられない。粗雑すぎて)、感情開放どころか逆効果、みたいなこともある。

レヴェナントは暴力シーンや死んじゃう場面も多いのに受け入れられたのは、その背景がすべて、雄大な大自然のシーンだったからだと思う。

おそらく殆んどカットしてない、ものすごい長回しで自然をたっぷり味わえる趣向になっていたのです。

切なさや悲しみが満載の映画だったけど、それがすべて大自然の中で起こっていたから、ハートがオープンしてフィーリングを受け入れることができたのだと。

それぞれに痛みを抱えた人間たちの、必死の小さな営みと、それをそのままに在らしめる、厳しくも美しい豊かな大自然。
それらをそのまま、心開いて、痛みを感じながらも味わうことができました。
これ、レンタルDVDでなく、大画面で大自然を堪能できてよかった。

私にとっては、心の奥底にあった切なさや悲しみ、苦しみを、世界への感謝と愛にまで変容させてもらった、素敵な映画でした。
終わりあるもの。
久々に予定のない休日ができたので、街におでかけしてきました。
お目当ては、袋町にあるカフェ「ピッコラフェリチタ」と、本通り裏にある映画館、シネツイン。

この2つの共通点は、私のお気に入りの場所であること。そして、閉店・閉館間際であること。
ピッコラフェリチタは11月半ば、シネツインは10月末に終わってしまうのです。
お気に入りの場所がなくなる前に、ぜひ行っておきたい!と思っていたのでした。

ピッコラフェリチタはハーブティーカフェ。身体が喜ぶオーガニックなメニューを豊富に揃えていて、お昼どきには酵素玄米のランチをいただける、この近辺では貴重なお店です。

この日、私たちはスムージーを注文。
何種類ものオリジナルレシピの中から、スーパーフードスムージーとチャイスムージーをピックアップ。
スーパーフードスムージーは、一口のむごとに身体に滋養が染み渡るような。
チャイスムージーは冷たいのにスパイスの香りが不思議なくらいふわりと活きて。
どちらもマスターのレシピの魔法と思われます。

マスターご夫妻はこのお店を始める前からのお友達。
こんな素敵な場所がなくなるなんて惜しいなあ…と思ってしまうのですが、
今後はもっと自然に囲まれた生活をするために、のんびりした田舎の環境に転居されるとのこと。ご発展ですね。
新しい環境でも、また何か面白いことを始められるのではないかと。
最後の打ち上げ会には参加予定ですが、それまでにも機会があれば行けるといいな。

そしてその後、シネツイン。
新海誠監督の2007年の作品「秒速5センチメートル」を観に行きました。

実は「君の名は。」を観るまで、新海さんの存在を知らなかったのですが、
久々に、これは追ってみたい!と感じられる映画だったので。
同じ監督の作品を複数みると、どんな人なのかちょっと感じられてくる。
1つだと点だけど、2つめで線になる。

この作品があってこそ「君の名は。」があるのだなあと納得。
数秘をやってる人間としては、この9年後に「君の名は。」を誕生させたのも興味深い。数秘は9年周期なので、1周してきたら「君の名は。」になったのね、と。
切り取り方も見せ方も、きめ細かくしっかり作り込んで、ツボをきちんとついてくる。心地よい感性の、今までにありそうでなかった刺激をくれる監督で、今後も楽しみです。

そして心地よい、といえばシネツインの居心地の良さ。
いかにも映画館、という雰囲気がおきにいりでした。
幕が閉じていく感じとか、椅子の心地よさとか、シネコンにはない落ち着いたアットホームな空間で。
ここに座るのが今回かぎりになるのは名残惜しいですが、しっかり味わって卒業してきました。

そのあとは、お気に入りのタイ料理店「レモングラス」へ。
ああ、どうしてこんなにタイ料理って美味しいの?
フレッシュなスパイス&ハーブが香り高く。このスパイスの鮮度がたまりません。
一品一品カラフルな味わいで、口中に曼荼羅が開花したような快感。

この店で食べる時は「トータリティとは何か」をしっかり体験できます。
うまいうまい!と夢中でその瞬間の味だけに全力を注いでるうちに、いつのまにかお皿がすっかりカラになって終わっているという(笑)。

次は普通なら本屋さんに行って、ゆるゆると書棚を巡ったりするのがお約束だけど、
この日は日本シリーズ、カープの試合があったので、早々に切り上げて終盤をTVで見ることに。
そもそも、野球の試合をゆっくり観ることが少なくて。
実際に観戦に行くときは別ですが、TV前で腰を落ち着けて観るようになったのは、今年のリーグ優勝が決まりかけてからかもしれません。
おそらくどちらの応援でもなければ「いい試合だね」と、楽しく観れる試合だろうけど、味方するチームがあると、ハラハラドキドキして勝敗を見届けるのが怖いものだと知りました(笑)。決着するまで落ち着かないったら。

…と、休日をつらつら追って書いてみたら、この日は「終わりあるもの」がテーマだったかな、と思った。
ピッコラもシネツインも近く終わりを迎えます。
タイ料理も旨さを堪能してるうちに、いつのまにか食べ終えてしまうし、カープの試合も勝とうが負けようが必ず終わりがくる。
この世界に存在するものは変化して、必ずどこかで終わりがあるのだなあと。

だからこそ、ちゃんと今あるものを大事にしよう。
終わることを惜しむのではなく、今あることを喜ぼう。
タイ料理を食べるように、いつもトータリティで。
カープの試合も怖がってないで(笑)、せっかくの日本シリーズの試合をしっかり見届けよう。

そんなことをさっくり感じた1日でした。
日常すべてがアトラクション☆
朝、突然まどろみの中で感じたこと。

そっか、日常で起こってくること、自分がやってること、全部テーマパークのアトラクションみたいなものなんだ!
ぜーーーんぶ、ワクワクするお楽しみだ〜っっ!

と。
これ思うに、私がこの世界に生まれてくる前の感覚がよみがえったのだと思う。
子宮の中とか。あるいはその前とか。

この推理には、それなりに根拠があります。
前日に妊婦のお客さんがいらして、大きなお腹をさわらせていただいたのです。

私は妊婦さんのお腹をさわらせてもらうのが大好きで。
触ると、みーーんな赤ちゃんは、もうやる気マンマン!なのです。
エネルギーが漲っていて、ワクワクしていて。
「早く出てきて何かやりたいーー!」って感じなの。
さわると、そのエネルギーをおすそ分けして頂けるような。
赤ちゃんも嬉しいみたい。今から行く世界の気配をちょっぴり感じられて。

で、そのエネルギーに影響されて、私自身のその頃の記憶とアクセスしたんじゃないかな〜と思うわけです。

もうね、朝のまどろみの中でやる気マンマン(笑)。
子宮の中の赤ちゃんの気持ちになりきっていたようです。

どの行為も出来事も楽しそう〜っ!みたいな。
あれもやってみたい!これもやってみたい!なんでもやってみたい!
あまりに色々やりた過ぎてエネルギーがパンパンなの。
その感覚が、幼いころ遊園地やテーマパークに入って
「よーし、どこから攻略しようかな〜っ?」
と、発熱するほどワクワク悩んでる感じに似てるのです。

それで、何をやるかっていうと、なんでもいいの。
何でもやりたいの。なんでもいいの。
何をやっても「感覚を感じること」は楽しめるから。

この「感覚を感じる」ということが、人間に生まれる一番の楽しみ、やりたいことなのだとしみじみ思いました。今回のまどろみ体験を経て。
たしかに肉体を持たないと、感覚は感じられないものね。

そっかー、私、とにかくなんでも、あらゆることを感じて、味わって、体験してみたい〜!って生まれたんだ〜と素直にナットクしました。

てことはですよ。
本来、何をやっていても、人間は感覚を感じるようになってるから、何をやってても魂はワクワク嬉しいってことだ。

つまり、本を読もうが、風呂に入ろうが、片付けしようが、成功しようが、失敗しようが、喜びも悲しみも、驚きも恐怖も、達成感も苦しみも、もう、なんでもかんでも。
それを全て味わい尽くしたい!ってこと。

たとえば不安、という感覚を携えて生きる人は、私も含め多いと思うけど、
それを、不安という感覚を味わえるアトラクションに入っていて(お化け屋敷が恐怖を味わえるアトラクションであるのと同じように)、それを私は体験したかったんだ、という感じに視点を変えるだけで、かなり違ってくる。

人生において不安になっても、その体験の感覚自体を楽しむことができるようになりそう。

そして、いろんなアトラクションを体験するうちに、だんだん好きなアトラクションを自由意志と経験に基づいて選べる力がついてきて、より自分らしい人生にしていくのかな、って。
で、好きじゃないのに勝手に向こうからやってくるイベントは、サプライズのアトラクションってことでパニックを楽しむ趣向なのかも(笑)。

だから感じようとしないのが、一番もったいない。遊園地にきて、ベンチに座ってるだけ、みたいなイメージ?

この肉体にいる限り、あらゆることに起きてくる感覚を体感して、この物質世界をアトラクションとして楽しんで、どんな感情や体験も一つ一つ味わえること自体が至福なのだと。

これからもネガティブな感情に巻き込まれそうになったら、
生まれる前のワクワク感を思い出して、世界はアトラクション!と視点を切り替えよう、と思ったまどろみの朝でした。
存在している。
この前、三次の奥に住む友人宅に泊まらせてもらいました。
楽しいこと、いろいろありました。

久しぶりに会えたこと、薪で焚いたお風呂に入れたこと、
庭にテーブルを出して、目前の川のせせらぎを聞きながら、朝食や夕食をいただけたこと。
ちょうどWOOOFでその家に滞在していた、オーストラリア出身の日本語堪能なオリバーくんと、いろんな話ができたこと。

そしてそんな楽しいことの中で一番ビックリしたのが、満天の星空!
ちょうど新月の頃で、雲ひとつなく、天の川もこんなくっきり絵に描いたように見えたのは久しぶり。
まるで大きな宝石箱をひっくり返したような、煌びやかな星空に息を呑む。
寒さに耐えられなくなるまで、外でずーっと椅子に座って眺めてました。

そうしてるとき、どこかのタイミングで、ふと、
「あ。存在してるんだ」と、ポッと出てきました。

私はこんなゴージャスな星空、久々に見たけど、
実はこの時だけじゃなく、前日も前々日も、真っ昼間でも、
この星空は、とにかくずーっと、存在してるんだ。

この前ホエールウォッチングで出逢ったクジラが、今この瞬間も海のどこかに存在しているのと同じように。

そして私も今、こうして存在してる。

こうして書いている時も、あの星空もクジラも存在してる。
私たちは、どれほどの広がりと豊かさの中で生きてるんだろう。

とか、そんなことを体の奥から感じていると、
日々の悩みとか、ひっかかりとか、いちいち気にかけてるのがアホらしくなるような。
なんかもう、この世界の一員として、存在してるだけで充分じゃん?
…みたいな。
空からあふれ出そうなほどの星をずーっと見てたら、
そんな気分になってくる。
大きな世界を感じたら、頭で考えてるいろんなことが小さく思える。

またすぐ忘れちゃうんだけどね〜。
でも、こうして書きとめておけば、忘れないかな?と思って。

もし何かに悩んだり、混乱した時は、あの星空とクジラを思い出そう。
そして自分に戻ってこよう。
そうそう、存在してるんだった。ってね。
雨と雨の隙間 〜水は循環する〜
ちょうど土砂災害の前に書いてた文章が埋もれてたのを発見しました。
あの頃のドタバタ、ワタワタした状況の中で忘れてたのだと思います。
せっかくなので、あの激しい雨の中で書いてたものを、以下掲載しますね。

***

ここ最近、明け方に目が覚めるほどの激しい雨が降っている。
今日もそう。ふと6時頃起きてみたら、滝のような雨。
せっかくだから、そのまま早起きしてみる。
雨音が心地良いから、ちょっぴり瞑想的に座ってみようかと。

雨の音をゆっくりたっぷり味わう。
静かに集中して聴いていると、1つ1つの雨音が分かれて聞こえてくるよう。
だいたいの雨音は、たぶん地球上の何かにぶつかったときの音だ。
道路とか屋根とか、樹木の葉っぱとか。
時折そのなかに混じる、ピチッピチッという音は、
電線や軒先、あるいは雨宿りしている小鳥の羽から滴り落ちる雨音かも。

そして、ふと感じたのは、もしかしたらこの音群れの中には、
雨粒が空中を滑り落ちながら、ヒュルルルっと空気と触れ合う、そのわずかな音たち…といえるかどうかもわからない程の波動?…も含まれているのかな〜と。
それが心を洗われるような心地にさせてくれるのでは、とか。

水が循環し、また地上に降りてくることを思うと、とてつもなく果てしなく雄大な世界を垣間見たような気がしてワクワクします。

そう、ついつい忘れちゃうけど、水は循環している。
私たちが意識してようがしまいが、この地球上をず〜っと太古の昔から巡っている。

さっき落ちた雨粒は、ある時はヒマラヤの麓からガンジス川へと滔々と流れていた水かもしれない。
今落ちたのは、いつかアマゾンの熱帯雨林の樹々の葉っぱを濡らしていた水かもしれない。

そして、私の体も大半は水でできている。
日々、体内の水も循環している。
さっき飲んだ水は、ある時は天山山脈の雪解け水だったかもしれない。砂漠のオアシスの貴重な井戸の中にあったかもしれない。

とか考えると、窓から手を伸ばして雨に触れてみたくなった。
そんな水が集まって出来上がっている私と、そんな太古の昔からの歴史を持つ雨粒が触れ合う瞬間を味わってみた。

とてもシンプルで、でも複雑な、不思議な感触でした。
水が地球を巡る旅に思いを馳せると、広大な世界が一粒の雨からでも広がってくるのでした。

以上、雨と雨の隙間にある音を感じて、ふと思ったこと。
生き残っている。
20年来の旅行仲間の友人が、昨夏、他界していたことを、つい最近になって知りました。

旅行者同士、消息がしばらくわからないのはよくあることです。
何年に一度くらいしか会えない人も多いから。

彼が肉体を離れたときいて、驚いたけれど、どこかで「ああなるほど」と不思議に納得している自分もどこかにいて。
喪失感はある。でも悲しみとかではない。

なんだかとても静かな気持ちになり、世界にエネルギーが解放されていったような穏やかな感覚。
どこかで、そういう予感でもしてたのかな?
顕在意識ではぜんぜん自覚ないのですが…。
たしかに、長生きしたそうな人ではなかったけれど。

なんとも説明できない不思議な感覚に浸されて、しばらくは言葉にすることができなくて。
それがようやく少し言葉になりそうなので、書きながら、起こしている感じです。

他界する人は、いつも素晴らしい置き土産をプレゼントしてくれます。
彼も、私にしばらく静かに内側に潜っていく時間を与えてくれました。

その深みで手に入れたのは「私達は生き残っている」という事実。

どんな人であれ、今この世界に生きている人は奇跡的に「生き残って」今に在るのだ、と。


長期であちこち旅行してる人達は、ある意味ずっと生死を賭けながら旅をしている。
もちろん本人たちはそんなつもりではないのだけど、客観的に見たとき、たいがいの人は生死を分けるような場面に遭遇しながら生き残ってきている。
何人かの友人たちは、既に肉体を離れている。
別に全員旅行先で亡くなってるわけじゃないですよ。
でも、いつも命がけの、ギリギリで生きてた人たちが多いかな。
太く短く生きる人たち。

それなので、旅行者同士が久しぶりに会うときは、
「お〜、生き残ってるね!お互い」みたいな。
そして友人たちの消息が「生き残ってるかどうか」の基準で語られる。
「生きてるって、奇跡的なことだねえ」と、再会を喜びあう。
ほんのちょっとの再会でも、とても濃厚な時間になる。
私はその濃厚さ、全力で生きてる感じを味わうのが大好きだ。

今回も、最初にやってきたのは「ああ、彼は旅立ち、私たちはまた生き残ったな」というフィーリングだった。

ただ、その訃報をきいた日には、それは旅行者の範囲内での認識だった。
それが、内側の深みのなかでフト気づいた。

あれ?「生き残ってる」って、もしや今地球上にいる万人にあてはまることではないの?と。

誰しもが、今ここにいるってことは「生き残った」のだ。
おそらく誰もが、いつかどこかで、無意識・意識的に九死に一生を得るような体験をして今にいる。
たとえば事故や病気、自殺を考えてみたり、とかね。
知らない間にギリギリで助かってるシーンもあるかもしれない。
そこを超えて、今、ある。
つまり今この世界にいる私達は、生き残った者同士なのだと。
しかも明日はまたどうなってるかわからない。

それを一瞬に知覚したとき、世界全体を感じられたような気がしました。ゾクっとしました。

その奇跡的な凄さにリアルに触れさせてもらったことで、
またほんの少し、身近な人々から世界のあらゆる人々にまで、優しい想いを持てるようになった気がします。

みんな生き残った同士だと思うと、大きな一体感とつながりを感じて、感謝とともに何だか謙虚な気持になる。
街を無表情に歩く人たちも、不機嫌そうな顔の店員さんも、私と同じく、きっと今までなにかと苦労したり悩んだりしているのだ(もちろん喜んだりもね)。
その中で死ぬことなく、私と同じく「生き残っているのだ」と。

そして生き残った人たちは、ただ生きているというだけで、それだけで本来はクリエイティブな存在なのだ、と、その深みのなかで感じました。

と、書きながらも同時に、そう思っていない人たちがいることを私は知っています。
日々セッションしていると、そういう方に訪れていただくことも多いです。

誰かに先立たれたり、事故で一人助かったり、先の大震災のような災害を体験されていたり。
生き残った、というより、生き残ってしまった、みたいな感覚。
そして「生き残った自分の使命は何なのか、なにをすればいいのか」と苦しんでおられる。

そういった話を伺うたび、本当に大変で辛いことだなあと感じていました。
でも、今回思ったのは、
生き残ったからには何かをしなければ、と、外に向かってやるべきことを探すのは難しいことではないか?と。

もちろん、そういうことが起きたときには、きっと誰もが苦しみ、悩むところだと思う。
そして、きっとどこまで考えても、答えが出ないのではないかと。

「私はなにをすればいい?」と、生き残らなかった人たちや起きたことの意味などに焦点をあてると、どこまで背負えばいいのかわからなくなる。
そういった苦しみを、他界した人たちが望んでいるとは思えません(私だったら「気にせず自分の道を歩んでくれよ」と思う)。

だから「私は生き残っている」と「私」に焦点をあてていく。

生き残っている自分、に戻ってくると、今ある私や他者や世界に優しい気持を向けられるのが不思議。

「私は生き残っている」という事実にくつろいだとき、人はクリエイティブになり、世界に対して自然なかたちで、喜びと豊かさをもたらす存在なのだろうなあ、と。

なぜ生き残ったかの意味を探らない。生き残った事実こそが意味だ。
その現実そのものに信頼をおいていく。
今ここにいるのは予定どおりなのだ。

もちろん、世界を感じたとき、複雑な気持ちにもなる。
世界のどこかでは空爆が起きていたり、紛争があったりするから。
それでもやはり、生き残っている、という自覚があると、そういった世界の痛みは自分とつながっていることをリアルに感じられる。
だからこそ、今この場所で自分自身をクリエイトしていくことが世界につながることも、リアルに感じられる。

生き残っていることを感じ、感謝し生きるだけで、きっと人はクリエイトしているのだと思う。
そしてクリエイトすることで、世界はその分だけじわじわと喜びに満ちていくのだ。

…と、いうようなコトが、一瞬にしてバババっとやってきて、奇跡に鳥肌がたって感謝の津波が湧き起こったのでした。

うーん、言葉に変換するのは、まだ早かったかな。
うまくあの瞬間を表現できません。
まあでも、ここから熟成させていこうと思います。

日々、生き残っていることに感謝しながら、丁寧に生きていこうと思います。
それが先に他界した友人たちへの、一番のはなむけのように感じています。

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