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満開のさくら色
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横川の川沿いのさくら、今年の満開はちょうど満月の頃でした。

さくらが満開の時って、ふわりと、不思議な軽みを感じます。

つぼみの時はいかにも植物らしく、今か今かと咲くのを楽しみにしている、やる気マンマンの気配が愛らしい。
でも満開になると、突然、この世のものとはなんだか違う感じになる。

本当にふわっと、物質と非物質、現象と潜象、目に見えるものと見えないものの境にあるような。
そして見ている側も、ちょっぴりその世界に足を踏み入れた感覚になる。

あのさくら色が、細胞のひとつひとつに染み渡る。
そして私の身体も、少し密度が薄くなって、軽くなる。

満月の夜、少しだけ仕事帰りに川沿いの並木に立ち寄ってみた。

雨上がりでも、さくらはまだまだ満開で。
おぼろ月夜の中、雨が降ったからか、さくらの香りが馥郁と漂っていて。

仕事あがりで、直観使いまくって、まだ身体に降りきってなかったからか、
この世ならぬ気配と香りと、月のコラボで、ほんの数分だったのに異世界に入ってしまったような時間を過ごしました。

そして、今そろそろ、あちこちで散り始めています。
また現実に戻ってくるための、幻想的なまでに美しいエンドロール。

あの世界にずっといるのではなく、私たちは桜吹雪とともに、この世に再び舞い戻ってくる。

日本人は昔からこうやって、桜を水先案内に異世界を旅し、
そしてまた戻って、新しい四季を迎える準備を整えてきたのかしら。

…とか、ふと思ってみたりして。桜吹雪に触れながら。
切なさは、味わいきると感謝に変わる。
※これは「レヴェナント」というレオナルド・ディカプリオ主演の映画を劇場で観たとき書いた文章を、長すぎて放置してたのを思い出して発見。いまさら掲載〜。

☆★☆

私にとって「切ない」という感情は、
「好きだけど苦手」という複雑な立ち位置にあるフィーリング。
じっくりしっかり感じると、いいところに抜けていくんだけど、そこに至るまでがしんどいから、切なさがやって来たときに、つい避けてしまう。感じないフリをして押さえつける。
あと「悲しみ」もそうかな。しっかり感じて味わうと美しいとこに行くんだけど、なんせ悲しみだから。積極的に味わうにはハードルが高い感情でしょ〜。

そうして感じないでいると気持ちを抑圧してるので、どこか心が麻痺したようになって、感覚全般の味わいがボンヤリしてくる。感受性が鈍くなる感じ。

ときおり、そうなったときに自主的に気づいて、
「あれ、生きてる感じを感じにくいぞ。もしかしてまた無意識に切なさや悲しみを抑圧してるのかな?」と振り向くことは大事。

さて、そしてここ最近、自分へのタロットのメッセージで
「悲しみの感情を感じて」とか「泣いとけ」とか、言われることが多くなり。
でも、自覚がないの(汗)。抑圧しているであろう、悲しいことや泣きたいことが思い当たらない。
大抵は「あ、なるほどね」と、それなりに気づける範囲のことが出る場合が多いんだけど。

けど、タロットは今の私に必要なことしか言わないから。
おそらく何らかで、あまりにも身近すぎて気づけない部分なのだろうな、と。

私はタロットを信頼してるので、自覚がなくても、理由がわからなくても、アドバイスはなるべく実行するようにしてます。
なので今回も「自覚はないけど、とりあえずアドバイスどおりどこかで泣いとくか」と思ってました(笑)。

そんなタイミングで見に行った映画がレオナルド・ディカプリオ主演の「レヴェナント」。

これはとてもいい映画でした。
といっても、R15指定の、ある意味バイオレンスばかりの映画。
アメリカの開拓時代だったかな、北部の先住民を略奪しながら、動物を殺戮しまくり、毛皮などを大量に持ち出している時代の話で、実話をもとにしているとか。

私はバイオレンス系の、見てて痛々しい映画は本来苦手なハズですが、この映画は観た後に不思議と心地よいフィーリングが残りました。

ちょうどタロットに「悲しみを味わえ」と言われてたので、普段なら、その痛々しいシーンで起こる感情から逃げて、感じないフリをしがちですが、今回は意識的に、悲しみや諍い、暴力や死にしっかり向き合ってみました。

ネイティブと開拓者の間の争い。自然をどんどん破壊していく、動物を無残に殺していく有様、同じように人を殺していく有様…。
素晴らしい人となりの人物が出てきても、たいがいほとんどの人が、あっけなく、いとも軽々と殺されていく。

そういう切なさに、キリキリ痛みを感じながら味わってると、
タロットに言われてもすぐには気づけなかった、少し深いところにあった悲しみや切なさにたどり着いた。

気づいてなかった感情。
それは「人が人であることの悲しみ」とでもいうか。
人として生きることの苦しみ、みたいな、人間の根本の苦しみを感じている自分がみつかった。

有史以来、ずっと争い続けている人間。
どうして戦争や暴力はおこってしまうんだろう。なんて命はあっけないのだろう。
世界や人類全体に対する無力感や切なさ。
人が人である限り、必ず起こる苦しみや悲しみ。
なんて切ないんだろう。

これら誰もが感じるような感情を、心の奥底に抑圧していたことに気づいた。
だって、感じたってどうしようもないじゃん。って。
でも、感じてる…ね。隠してただけ。

タロットは、そういう普遍的な悲しみや切なさと、そろそろ向き合う時期が来ていたことを知らせてくれてたんだね。
自分自身の個人的な出来事や状況から悲しみを探していたので気づかなかった。

気づいてなかったけど、抑圧してるのは事実だから、なんらかの形で私の感情を制限していたのだと思う。

映画を観るうち、心の奥底に潜んでいたその部分を刺激されて、少しずつ氷が溶けるように涙がじわじわと勝手に滲んできた。

後半のクライマックスの頃には、すでに話のストーリーはBGM状態。
頭は話を追ってない。ただ眺めてるだけ。
映画が、純粋に感情を味わうツールと化してました。

そして、抑圧していた切なさや悲しみがかなり引き出され、たっぷり身体いっぱいに痛みを感じることで抜けてきた頃(感情は味わうと抜けるのです)、今度は、人の持つ美しさや優しさ、良心、強さなども映画の中から感じられるようになって。

愛や、美しさ優しさと同時に、恐れや憎しみや怒り、両方を持つ人間という存在。
これらを同時に持つからこその苦しみ。
どちらか一方だけなら苦しくないもんね。

そうか、人が人であることの悲しみを感じるのは、人の愛や美しさ素晴らしさを知ってるからこそ感じてしまうのか。

ほんと、だから人間なんだよな〜、人間ってこうなんだよな〜。と。

人間のその悲しみを感じることで、同時に愛を感じられて、
またその切なさを感じることで、それでもこうして生きることのできる世界への感謝を味わえて。

観た後にはすがすがしく、優しい気持ちになり。
おかげで「世界って素晴らしい!」という心地よい感謝にまで抜けていくことができました。

でももちろん、どの映画でもこんな風になるって訳ではありません。

個人的には、トートツに主人公の恋人が死んだりして、強引に心を揺さぶろうとする映画は好きじゃない。
あからさまな作為を感じると、素直じゃないから、
「ほーら、ここで泣いてごらん、泣き所だよ〜」みたいなシーンにくると、
「誰がそんなバレバレの手にのるか!」とか思っちゃって、受け入れられないの。
うっかりそういう相性の悪い映画を見に行くと、
悲しむところであえてグッと抑圧しちゃって(表面部分はもちろん泣かされちゃうよ。だけど奥の部分では心を開けられない。粗雑すぎて)、感情開放どころか逆効果、みたいなこともある。

レヴェナントは暴力シーンや死んじゃう場面も多いのに受け入れられたのは、その背景がすべて、雄大な大自然のシーンだったからだと思う。

おそらく殆んどカットしてない、ものすごい長回しで自然をたっぷり味わえる趣向になっていたのです。

切なさや悲しみが満載の映画だったけど、それがすべて大自然の中で起こっていたから、ハートがオープンしてフィーリングを受け入れることができたのだと。

それぞれに痛みを抱えた人間たちの、必死の小さな営みと、それをそのままに在らしめる、厳しくも美しい豊かな大自然。
それらをそのまま、心開いて、痛みを感じながらも味わうことができました。
これ、レンタルDVDでなく、大画面で大自然を堪能できてよかった。

私にとっては、心の奥底にあった切なさや悲しみ、苦しみを、世界への感謝と愛にまで変容させてもらった、素敵な映画でした。
終わりあるもの。
久々に予定のない休日ができたので、街におでかけしてきました。
お目当ては、袋町にあるカフェ「ピッコラフェリチタ」と、本通り裏にある映画館、シネツイン。

この2つの共通点は、私のお気に入りの場所であること。そして、閉店・閉館間際であること。
ピッコラフェリチタは11月半ば、シネツインは10月末に終わってしまうのです。
お気に入りの場所がなくなる前に、ぜひ行っておきたい!と思っていたのでした。

ピッコラフェリチタはハーブティーカフェ。身体が喜ぶオーガニックなメニューを豊富に揃えていて、お昼どきには酵素玄米のランチをいただける、この近辺では貴重なお店です。

この日、私たちはスムージーを注文。
何種類ものオリジナルレシピの中から、スーパーフードスムージーとチャイスムージーをピックアップ。
スーパーフードスムージーは、一口のむごとに身体に滋養が染み渡るような。
チャイスムージーは冷たいのにスパイスの香りが不思議なくらいふわりと活きて。
どちらもマスターのレシピの魔法と思われます。

マスターご夫妻はこのお店を始める前からのお友達。
こんな素敵な場所がなくなるなんて惜しいなあ…と思ってしまうのですが、
今後はもっと自然に囲まれた生活をするために、のんびりした田舎の環境に転居されるとのこと。ご発展ですね。
新しい環境でも、また何か面白いことを始められるのではないかと。
最後の打ち上げ会には参加予定ですが、それまでにも機会があれば行けるといいな。

そしてその後、シネツイン。
新海誠監督の2007年の作品「秒速5センチメートル」を観に行きました。

実は「君の名は。」を観るまで、新海さんの存在を知らなかったのですが、
久々に、これは追ってみたい!と感じられる映画だったので。
同じ監督の作品を複数みると、どんな人なのかちょっと感じられてくる。
1つだと点だけど、2つめで線になる。

この作品があってこそ「君の名は。」があるのだなあと納得。
数秘をやってる人間としては、この9年後に「君の名は。」を誕生させたのも興味深い。数秘は9年周期なので、1周してきたら「君の名は。」になったのね、と。
切り取り方も見せ方も、きめ細かくしっかり作り込んで、ツボをきちんとついてくる。心地よい感性の、今までにありそうでなかった刺激をくれる監督で、今後も楽しみです。

そして心地よい、といえばシネツインの居心地の良さ。
いかにも映画館、という雰囲気がおきにいりでした。
幕が閉じていく感じとか、椅子の心地よさとか、シネコンにはない落ち着いたアットホームな空間で。
ここに座るのが今回かぎりになるのは名残惜しいですが、しっかり味わって卒業してきました。

そのあとは、お気に入りのタイ料理店「レモングラス」へ。
ああ、どうしてこんなにタイ料理って美味しいの?
フレッシュなスパイス&ハーブが香り高く。このスパイスの鮮度がたまりません。
一品一品カラフルな味わいで、口中に曼荼羅が開花したような快感。

この店で食べる時は「トータリティとは何か」をしっかり体験できます。
うまいうまい!と夢中でその瞬間の味だけに全力を注いでるうちに、いつのまにかお皿がすっかりカラになって終わっているという(笑)。

次は普通なら本屋さんに行って、ゆるゆると書棚を巡ったりするのがお約束だけど、
この日は日本シリーズ、カープの試合があったので、早々に切り上げて終盤をTVで見ることに。
そもそも、野球の試合をゆっくり観ることが少なくて。
実際に観戦に行くときは別ですが、TV前で腰を落ち着けて観るようになったのは、今年のリーグ優勝が決まりかけてからかもしれません。
おそらくどちらの応援でもなければ「いい試合だね」と、楽しく観れる試合だろうけど、味方するチームがあると、ハラハラドキドキして勝敗を見届けるのが怖いものだと知りました(笑)。決着するまで落ち着かないったら。

…と、休日をつらつら追って書いてみたら、この日は「終わりあるもの」がテーマだったかな、と思った。
ピッコラもシネツインも近く終わりを迎えます。
タイ料理も旨さを堪能してるうちに、いつのまにか食べ終えてしまうし、カープの試合も勝とうが負けようが必ず終わりがくる。
この世界に存在するものは変化して、必ずどこかで終わりがあるのだなあと。

だからこそ、ちゃんと今あるものを大事にしよう。
終わることを惜しむのではなく、今あることを喜ぼう。
タイ料理を食べるように、いつもトータリティで。
カープの試合も怖がってないで(笑)、せっかくの日本シリーズの試合をしっかり見届けよう。

そんなことをさっくり感じた1日でした。
日常すべてがアトラクション☆
朝、突然まどろみの中で感じたこと。

そっか、日常で起こってくること、自分がやってること、全部テーマパークのアトラクションみたいなものなんだ!
ぜーーーんぶ、ワクワクするお楽しみだ〜っっ!

と。
これ思うに、私がこの世界に生まれてくる前の感覚がよみがえったのだと思う。
子宮の中とか。あるいはその前とか。

この推理には、それなりに根拠があります。
前日に妊婦のお客さんがいらして、大きなお腹をさわらせていただいたのです。

私は妊婦さんのお腹をさわらせてもらうのが大好きで。
触ると、みーーんな赤ちゃんは、もうやる気マンマン!なのです。
エネルギーが漲っていて、ワクワクしていて。
「早く出てきて何かやりたいーー!」って感じなの。
さわると、そのエネルギーをおすそ分けして頂けるような。
赤ちゃんも嬉しいみたい。今から行く世界の気配をちょっぴり感じられて。

で、そのエネルギーに影響されて、私自身のその頃の記憶とアクセスしたんじゃないかな〜と思うわけです。

もうね、朝のまどろみの中でやる気マンマン(笑)。
子宮の中の赤ちゃんの気持ちになりきっていたようです。

どの行為も出来事も楽しそう〜っ!みたいな。
あれもやってみたい!これもやってみたい!なんでもやってみたい!
あまりに色々やりた過ぎてエネルギーがパンパンなの。
その感覚が、幼いころ遊園地やテーマパークに入って
「よーし、どこから攻略しようかな〜っ?」
と、発熱するほどワクワク悩んでる感じに似てるのです。

それで、何をやるかっていうと、なんでもいいの。
何でもやりたいの。なんでもいいの。
何をやっても「感覚を感じること」は楽しめるから。

この「感覚を感じる」ということが、人間に生まれる一番の楽しみ、やりたいことなのだとしみじみ思いました。今回のまどろみ体験を経て。
たしかに肉体を持たないと、感覚は感じられないものね。

そっかー、私、とにかくなんでも、あらゆることを感じて、味わって、体験してみたい〜!って生まれたんだ〜と素直にナットクしました。

てことはですよ。
本来、何をやっていても、人間は感覚を感じるようになってるから、何をやってても魂はワクワク嬉しいってことだ。

つまり、本を読もうが、風呂に入ろうが、片付けしようが、成功しようが、失敗しようが、喜びも悲しみも、驚きも恐怖も、達成感も苦しみも、もう、なんでもかんでも。
それを全て味わい尽くしたい!ってこと。

たとえば不安、という感覚を携えて生きる人は、私も含め多いと思うけど、
それを、不安という感覚を味わえるアトラクションに入っていて(お化け屋敷が恐怖を味わえるアトラクションであるのと同じように)、それを私は体験したかったんだ、という感じに視点を変えるだけで、かなり違ってくる。

人生において不安になっても、その体験の感覚自体を楽しむことができるようになりそう。

そして、いろんなアトラクションを体験するうちに、だんだん好きなアトラクションを自由意志と経験に基づいて選べる力がついてきて、より自分らしい人生にしていくのかな、って。
で、好きじゃないのに勝手に向こうからやってくるイベントは、サプライズのアトラクションってことでパニックを楽しむ趣向なのかも(笑)。

だから感じようとしないのが、一番もったいない。遊園地にきて、ベンチに座ってるだけ、みたいなイメージ?

この肉体にいる限り、あらゆることに起きてくる感覚を体感して、この物質世界をアトラクションとして楽しんで、どんな感情や体験も一つ一つ味わえること自体が至福なのだと。

これからもネガティブな感情に巻き込まれそうになったら、
生まれる前のワクワク感を思い出して、世界はアトラクション!と視点を切り替えよう、と思ったまどろみの朝でした。
存在している。
この前、三次の奥に住む友人宅に泊まらせてもらいました。
楽しいこと、いろいろありました。

久しぶりに会えたこと、薪で焚いたお風呂に入れたこと、
庭にテーブルを出して、目前の川のせせらぎを聞きながら、朝食や夕食をいただけたこと。
ちょうどWOOOFでその家に滞在していた、オーストラリア出身の日本語堪能なオリバーくんと、いろんな話ができたこと。

そしてそんな楽しいことの中で一番ビックリしたのが、満天の星空!
ちょうど新月の頃で、雲ひとつなく、天の川もこんなくっきり絵に描いたように見えたのは久しぶり。
まるで大きな宝石箱をひっくり返したような、煌びやかな星空に息を呑む。
寒さに耐えられなくなるまで、外でずーっと椅子に座って眺めてました。

そうしてるとき、どこかのタイミングで、ふと、
「あ。存在してるんだ」と、ポッと出てきました。

私はこんなゴージャスな星空、久々に見たけど、
実はこの時だけじゃなく、前日も前々日も、真っ昼間でも、
この星空は、とにかくずーっと、存在してるんだ。

この前ホエールウォッチングで出逢ったクジラが、今この瞬間も海のどこかに存在しているのと同じように。

そして私も今、こうして存在してる。

こうして書いている時も、あの星空もクジラも存在してる。
私たちは、どれほどの広がりと豊かさの中で生きてるんだろう。

とか、そんなことを体の奥から感じていると、
日々の悩みとか、ひっかかりとか、いちいち気にかけてるのがアホらしくなるような。
なんかもう、この世界の一員として、存在してるだけで充分じゃん?
…みたいな。
空からあふれ出そうなほどの星をずーっと見てたら、
そんな気分になってくる。
大きな世界を感じたら、頭で考えてるいろんなことが小さく思える。

またすぐ忘れちゃうんだけどね〜。
でも、こうして書きとめておけば、忘れないかな?と思って。

もし何かに悩んだり、混乱した時は、あの星空とクジラを思い出そう。
そして自分に戻ってこよう。
そうそう、存在してるんだった。ってね。
雨と雨の隙間 〜水は循環する〜
ちょうど土砂災害の前に書いてた文章が埋もれてたのを発見しました。
あの頃のドタバタ、ワタワタした状況の中で忘れてたのだと思います。
せっかくなので、あの激しい雨の中で書いてたものを、以下掲載しますね。

***

ここ最近、明け方に目が覚めるほどの激しい雨が降っている。
今日もそう。ふと6時頃起きてみたら、滝のような雨。
せっかくだから、そのまま早起きしてみる。
雨音が心地良いから、ちょっぴり瞑想的に座ってみようかと。

雨の音をゆっくりたっぷり味わう。
静かに集中して聴いていると、1つ1つの雨音が分かれて聞こえてくるよう。
だいたいの雨音は、たぶん地球上の何かにぶつかったときの音だ。
道路とか屋根とか、樹木の葉っぱとか。
時折そのなかに混じる、ピチッピチッという音は、
電線や軒先、あるいは雨宿りしている小鳥の羽から滴り落ちる雨音かも。

そして、ふと感じたのは、もしかしたらこの音群れの中には、
雨粒が空中を滑り落ちながら、ヒュルルルっと空気と触れ合う、そのわずかな音たち…といえるかどうかもわからない程の波動?…も含まれているのかな〜と。
それが心を洗われるような心地にさせてくれるのでは、とか。

水が循環し、また地上に降りてくることを思うと、とてつもなく果てしなく雄大な世界を垣間見たような気がしてワクワクします。

そう、ついつい忘れちゃうけど、水は循環している。
私たちが意識してようがしまいが、この地球上をず〜っと太古の昔から巡っている。

さっき落ちた雨粒は、ある時はヒマラヤの麓からガンジス川へと滔々と流れていた水かもしれない。
今落ちたのは、いつかアマゾンの熱帯雨林の樹々の葉っぱを濡らしていた水かもしれない。

そして、私の体も大半は水でできている。
日々、体内の水も循環している。
さっき飲んだ水は、ある時は天山山脈の雪解け水だったかもしれない。砂漠のオアシスの貴重な井戸の中にあったかもしれない。

とか考えると、窓から手を伸ばして雨に触れてみたくなった。
そんな水が集まって出来上がっている私と、そんな太古の昔からの歴史を持つ雨粒が触れ合う瞬間を味わってみた。

とてもシンプルで、でも複雑な、不思議な感触でした。
水が地球を巡る旅に思いを馳せると、広大な世界が一粒の雨からでも広がってくるのでした。

以上、雨と雨の隙間にある音を感じて、ふと思ったこと。
生き残っている。
20年来の旅行仲間の友人が、昨夏、他界していたことを、つい最近になって知りました。

旅行者同士、消息がしばらくわからないのはよくあることです。
何年に一度くらいしか会えない人も多いから。

彼が肉体を離れたときいて、驚いたけれど、どこかで「ああなるほど」と不思議に納得している自分もどこかにいて。
喪失感はある。でも悲しみとかではない。

なんだかとても静かな気持ちになり、世界にエネルギーが解放されていったような穏やかな感覚。
どこかで、そういう予感でもしてたのかな?
顕在意識ではぜんぜん自覚ないのですが…。
たしかに、長生きしたそうな人ではなかったけれど。

なんとも説明できない不思議な感覚に浸されて、しばらくは言葉にすることができなくて。
それがようやく少し言葉になりそうなので、書きながら、起こしている感じです。

他界する人は、いつも素晴らしい置き土産をプレゼントしてくれます。
彼も、私にしばらく静かに内側に潜っていく時間を与えてくれました。

その深みで手に入れたのは「私達は生き残っている」という事実。

どんな人であれ、今この世界に生きている人は奇跡的に「生き残って」今に在るのだ、と。


長期であちこち旅行してる人達は、ある意味ずっと生死を賭けながら旅をしている。
もちろん本人たちはそんなつもりではないのだけど、客観的に見たとき、たいがいの人は生死を分けるような場面に遭遇しながら生き残ってきている。
何人かの友人たちは、既に肉体を離れている。
別に全員旅行先で亡くなってるわけじゃないですよ。
でも、いつも命がけの、ギリギリで生きてた人たちが多いかな。
太く短く生きる人たち。

それなので、旅行者同士が久しぶりに会うときは、
「お〜、生き残ってるね!お互い」みたいな。
そして友人たちの消息が「生き残ってるかどうか」の基準で語られる。
「生きてるって、奇跡的なことだねえ」と、再会を喜びあう。
ほんのちょっとの再会でも、とても濃厚な時間になる。
私はその濃厚さ、全力で生きてる感じを味わうのが大好きだ。

今回も、最初にやってきたのは「ああ、彼は旅立ち、私たちはまた生き残ったな」というフィーリングだった。

ただ、その訃報をきいた日には、それは旅行者の範囲内での認識だった。
それが、内側の深みのなかでフト気づいた。

あれ?「生き残ってる」って、もしや今地球上にいる万人にあてはまることではないの?と。

誰しもが、今ここにいるってことは「生き残った」のだ。
おそらく誰もが、いつかどこかで、無意識・意識的に九死に一生を得るような体験をして今にいる。
たとえば事故や病気、自殺を考えてみたり、とかね。
知らない間にギリギリで助かってるシーンもあるかもしれない。
そこを超えて、今、ある。
つまり今この世界にいる私達は、生き残った者同士なのだと。
しかも明日はまたどうなってるかわからない。

それを一瞬に知覚したとき、世界全体を感じられたような気がしました。ゾクっとしました。

その奇跡的な凄さにリアルに触れさせてもらったことで、
またほんの少し、身近な人々から世界のあらゆる人々にまで、優しい想いを持てるようになった気がします。

みんな生き残った同士だと思うと、大きな一体感とつながりを感じて、感謝とともに何だか謙虚な気持になる。
街を無表情に歩く人たちも、不機嫌そうな顔の店員さんも、私と同じく、きっと今までなにかと苦労したり悩んだりしているのだ(もちろん喜んだりもね)。
その中で死ぬことなく、私と同じく「生き残っているのだ」と。

そして生き残った人たちは、ただ生きているというだけで、それだけで本来はクリエイティブな存在なのだ、と、その深みのなかで感じました。

と、書きながらも同時に、そう思っていない人たちがいることを私は知っています。
日々セッションしていると、そういう方に訪れていただくことも多いです。

誰かに先立たれたり、事故で一人助かったり、先の大震災のような災害を体験されていたり。
生き残った、というより、生き残ってしまった、みたいな感覚。
そして「生き残った自分の使命は何なのか、なにをすればいいのか」と苦しんでおられる。

そういった話を伺うたび、本当に大変で辛いことだなあと感じていました。
でも、今回思ったのは、
生き残ったからには何かをしなければ、と、外に向かってやるべきことを探すのは難しいことではないか?と。

もちろん、そういうことが起きたときには、きっと誰もが苦しみ、悩むところだと思う。
そして、きっとどこまで考えても、答えが出ないのではないかと。

「私はなにをすればいい?」と、生き残らなかった人たちや起きたことの意味などに焦点をあてると、どこまで背負えばいいのかわからなくなる。
そういった苦しみを、他界した人たちが望んでいるとは思えません(私だったら「気にせず自分の道を歩んでくれよ」と思う)。

だから「私は生き残っている」と「私」に焦点をあてていく。

生き残っている自分、に戻ってくると、今ある私や他者や世界に優しい気持を向けられるのが不思議。

「私は生き残っている」という事実にくつろいだとき、人はクリエイティブになり、世界に対して自然なかたちで、喜びと豊かさをもたらす存在なのだろうなあ、と。

なぜ生き残ったかの意味を探らない。生き残った事実こそが意味だ。
その現実そのものに信頼をおいていく。
今ここにいるのは予定どおりなのだ。

もちろん、世界を感じたとき、複雑な気持ちにもなる。
世界のどこかでは空爆が起きていたり、紛争があったりするから。
それでもやはり、生き残っている、という自覚があると、そういった世界の痛みは自分とつながっていることをリアルに感じられる。
だからこそ、今この場所で自分自身をクリエイトしていくことが世界につながることも、リアルに感じられる。

生き残っていることを感じ、感謝し生きるだけで、きっと人はクリエイトしているのだと思う。
そしてクリエイトすることで、世界はその分だけじわじわと喜びに満ちていくのだ。

…と、いうようなコトが、一瞬にしてバババっとやってきて、奇跡に鳥肌がたって感謝の津波が湧き起こったのでした。

うーん、言葉に変換するのは、まだ早かったかな。
うまくあの瞬間を表現できません。
まあでも、ここから熟成させていこうと思います。

日々、生き残っていることに感謝しながら、丁寧に生きていこうと思います。
それが先に他界した友人たちへの、一番のはなむけのように感じています。

はじめてウンチをふいた日。
先日、お客さんが3〜4歳くらいの娘さんを同伴されてご来店くださいました。
とても賢いしっかりしたお子さんで、お母さんがセッション中も一人しずかにお絵描きしたりして待ってます。
うちのセッションはタロットだけでも1時間くらいかかるので、お子さんにしたら長い長い待ち時間だと思うのに。
お母さんのことが大好きで、とっても大事なんだなあ、とひしひし感じます。

そのセッション途中で一度、
「お母さん、トイレ〜!」と駆け込んできました。
お母さんも大慌てで、いったん中断。
「トイレ、できるようになったけど、まだ後始末ができないんですよね(笑)」

そしてトイレからでてきた時。
なんだか娘さんの顔がとてもキラキラしていて。
すると嬉しそうに、私にこっそり耳打ちしてくれました。
「あのね、私、はじめてウンチがふけたんだよ!」って。

本当に誇らしそうな笑顔に、とても崇高なものを感じました。
「え〜っ、すごいね!おめでとう!」と大声でお祝いしました。
人生初の自分でウンチをふいた記念すべき場所として、占猫が選ばれたことは光栄です。

ああそうだ、この頃には、いろんなことが人生初めてだったなあと思い出しました。
カップの取っ手がしっかり持てるようになったり。
ボタンがちゃんとかけれるようになったり。

その度に誇らしい気持ちになってたんだなあって。

私が初めてウンチをふいた日は、いったいどんな日でどんな気持ちだったんだろうな…と、ついつい思いを馳せてみたり。

娘さんどうもありがとう。
おかげさまで、今の自分ができるさりげない行為ひとつひとつに、
あらためて感謝することができました。
コップが持てること、ボタンがかけられること、お箸がもてること…。
それがどんなにすごくて誇らしいことか。

そう考えると、日常のささいな悩みなどアホらしくなりそうです。
「とりあえずウンチがふけるようになった私なんだから、大丈夫、どうにかなるでしょ」みたいな。
そのひとことで一蹴できるようなくだらない悩みでモヤモヤしてる時、けっこうありそうな気がしてきました(笑)。

宮島に初詣。
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今年初の日記ですね。

あけましておめでとうございます。
昨年はおかげさまで店も3周年を迎えることができ、
充実した一年となりました。
たくさんの方々にあたたかくお世話になりました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
皆様にとって、素晴らしい年となりますよう。

さてさて。
お正月は、1日に氏神様におまいりし、
3日に宮島へ初詣にお出かけしました。
広島に戻ってきてからは、毎年の恒例行事です。

天気が良くて、あったかいお出かけ日和だったからか、今までで最も参拝客が多かったです。

つまり、厳島神社の回廊は大渋滞。
でも初詣はやっぱり雰囲気が気持ちいい。
渋滞しても、周囲の人もイライラしてないの。
新しい年を迎えてのフレッシュさとかワクワク気分がある感じ。

まわりののどかで雑多な、サワサワした会話をBGMに、ゆったり漂う中でフト気付く。

ここにいる大渋滞に巻き込まれている一人一人、みんながそれぞれの物語を今日まで生きてきてるんだ。と。

よく考えたら当たり前なんだけど、あんまりリアルに考えたことがなかった。
いつもはさらっと流してる。こっくり認識してないというか。
そのときはこっくりきた。
穏やかな雰囲気だったから、みんなのエネルギーを受け入れたんだな、きっと。
初詣だからこそできたのかな。ラッシュの電車じゃ無理だと思う。

それぞれが、いろんな価値観や大切なもの、喜びや悲しみ、あるいは想像もできないものを含みながら日々を営んでるんだ、と。
そして今この時に、こうして同じ回廊で一緒に渋滞してる。
新年の慶びと祝福のために。

ん〜すごい。なんと世界はこんなに緻密で濃厚なんだろう。

そんなこんな思いながら、青い空と青い海を人の頭越しに眺めつつ、
面白い年になりそうな予感にワクワクと大渋滞してました。

そして毎年、厳島神社でご祈祷もお願いしています。
なぜか不思議なことに、控室でご祈祷の順番を待ってるときから、厳島の神様といろんなお話をします。
本当に神様なのか?と言われると証明はできませんが、かなりの女子トークっぷりなので、厳島神社の媛さまのどなたかと思われます。

まあでも、それが私自身なのか誰なのかはあまり重要ではありません(と、その媛さまもおっしゃいます)。
いつも視点をパッと変えてくれる発想を突然もらえたり、素晴らしいきっかけやヒントをいただける、ありがたい時間なのです。

今回もいろんな話をする中で、突然、なぜか、
「そっか、じゃあ今年はいっぱい文章を書くぞー!」
という気分になりました。

え?何で?と、思いついた私もビックリですが、
たしかに、表現してみてようやく自分が何を思ってるか判明するタイプなので、
自己認識を深めるためにも良いかもしれません。
で、書いたらやっぱりブログに載せて記録しときたいよね。

というわけで、今年の目標(?)は、
「いろいろ文章書いて、言葉で遊ぶぞ。まめにブログアップするぞ」
になりました。

…とか、こうして書いてるうちに既に怯んでますけど(笑)。
三日坊主になるんじゃないの?と自信もなく。
だからこそ、こうして年始に宣言しとけば、昨年よりは書くかもね。

たぶんね〜怯んではいるけれど、どこか奥底で、ずっと表現してなかった昔のさりげない事とかを、外に放出したいんだと思う。
きっと昔の話、とか思い出すんだろうなあ。という予感。
何が出てくるかは、今後の自分のおたのしみ。

あ。やっぱり、こうやって書いてると書きたくなってきた。

秋の出雲旅行以来、なんだかリセット感たっぷりで、すっかり白紙状態だったのです。
360度、モンゴルの草原のような。何の目印もない、地平線だけ。

さてさて、ここからまずはどんな方向に歩いてみようかな?
…と、のんびり何かヒントがくるのを待ってたのですが。

そんな中でのとりあえずの目標というか、実は漠然とやりたかった事にクリアに気付かせてもらえました。
360度地平線の、とりあえずの一歩。
どうもありがとうございます。

こんなこと書いといて、ブログが三日坊主になったらカッコ悪いな、と思いつつも、気ままに喜びを表現していくような、楽しい年が始まった予感。

このフレッシュな気分を、しばらくはたっぷり味わおっと。

王様気分。
この前「身体にプレゼント」という日記の中で、

「全身トリートメントしてもらうと、身体が大切にされて王様気分になるらしくて大喜びします」みたいなことを書きました。

で、それを見た友人が「女王様じゃなくて王様なんだ〜!」と、
さっくり一言、気軽にコメントしてくれたのですが、
それが私に大衝撃をもたらしました。

あっ!ホントだ!
言われてビックリ。たしかに〜。
自覚なく書いたけど、あらためて感じてみても、やっぱり女王様感覚ではないのです。
うーん、なんで?自分でも不思議。

…と、さっそく細かく分析してみたところ(笑)、どうもね、いわゆる王様でもなく「子どもの私」が喜んでました。

純粋無垢な子どもの感じてる、大王様的な感覚。
赤ちゃんの頃とか?まだ性別の認識もないくらいの時期。
その頃の、大事にされている身体感覚とリンクして、子どもの私が喜んでいるみたいなのです。

え?つまり、身体はまだ子どものつもり…?
うーん、まだまだ探求する余地がありそうです(笑)。

それにしても、さっくり頂いたコメントで、こんな衝撃の事実が見つかるとは。
(女王様気分って感じたことなかったかも…。いつも子ども的な大王様〜)

おかげさまで新しく、かつ面白い自分を発見できました。
どうもありがとうございます。

というわけで、ブログにもメモしておこうと思った次第です。

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