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12年越しのお客さん。
この前、東京からの長いお付き合いのお客さんが遊びに来てくれました。
おそらく、かれこれ出会ってから12年くらい。
私がこの仕事を本格的に始めたばかりの頃からのお付き合いです。

当時、下北沢でCURRY TAROT CAFEをオープンして、たしか1〜2ヶ月もしないうち?に飛び込みで来てくれた20代の男性で(今や30代ですね!)。
まだ始めたばかりの新人さん(笑)としては、飛び込みで男性というお客さんも珍しく、数秘とタロットの両方で長時間のセッションだったのもあって、印象深かったのを覚えています。

それが最初で、以来ずっとご縁が続いてます。
といっても、頻繁にご来店されるわけではなく、ペースとしては1〜2年に一度くらい。
節目になると、ふと会いにきてくれる。
広島に移転してからも、東京出張の際に来てくれたり、
仕事の出張に合わせて占猫に来てくれたこともありました。

今回は3年ぶりくらいかな。

その前日の夕方になって、突然電話が入り。
「急に広島への出張が決まったのだけど、明日の夜に空いてますか?」と。

そういうときって、その人にとってタイミングだったら、不思議なことにポコっと空いてるんですよね。

それで久しぶりの邂逅となったのでした。

彼と会うと、新鮮な気持ちになります。
新人だった頃の自分を思い出すのです。

たとえば彼は毎回、その12年前に作成した数秘術のチャートを持って来てくれます。
12年間、大切に保管してくれていることも嬉しいけれど、
チャートを書いた自分の筆跡を見ることが、なんとも言えない感情を掘り起こすみたい。

まだ始めたばかりの頃だからか、チャートを書く字が、ものすごーく用心深い(笑)。
計算を間違えないように、読みにくい数字にならないようにと、ちょっと緊張して書いてる気配を感じるの。
(今だと、間違いがあるとしたらそれも必要な流れ。とか思ってますが(笑))

このフレッシュな初々しい気配が微笑ましい。
始めたばかりの初心に戻るような。
あらためて「この仕事をやらせてもらえることの喜び」が想起してくるのです。

お客さんが、不思議なご縁によって来店してくださることの喜び。
ワクワクドキドキ、セッションさせてもらえることへの歓び。
お仕事としてお金がいただけて、それによって日々を暮らせる嬉しさ。
そして、お客さんに喜んでもらった時のこのうえない充実感。

今現在も、たくさんのセッションを体験させてもらえる日々にいつも感謝しているけれど、
当時の私が感じていたような、新鮮な喜びとはちょっと違う。
それはもちろん、どうやっても昔のフレッシュさには戻れないし、戻らなくていい。
でも、だからこそ時折、こうして当時の感覚を思い出すのは大切な気がする。

どこかで今のこの状況を当然と思ってないか?驕りはないか?
今の私を見つめなおす機会をもらってるような。
そして、大好きなリーディングを仕事にさせてもらってることへの感謝を、あらためて深く深く感じられるのです。

12年たっても、本質は変わらないお互いが、成長しあって、邂逅し、セッションする。
お互いの成長を言祝ぎつつ、始めたばかりの初心に戻るような、襟を正すような気持ちにさせてもらえる。

そして、そこから振り返ってみると。
広島に来てからも、もうすぐ7年になります。
7年、6年、5年、4年…と、あるどこかのタイミングに出会って以来、今回の彼のように、ずっとご縁が続いているお客さんがたくさんいてくださる。
本当に、私はなんて果報者なのだ!とあらためて感じ入る次第です。

そうやって、たくさんの常連さんに支えられて、今の私がいます。
毎月であれ、数年おきであれ、何度も足を運んでもらえることが、どれだけありがたいことか。
その喜びをしっかりと意識化させてもらえた、今回の邂逅でした。
Tくん、どうもありがとうね。
また節目が来たら、お会いしましょう。
お互い、これからも素敵な人生の旅を。再会を祈りつつ。
内も外も、心地よくありますよう。
普段はフェイスブックには日記をアップしないのですが、
選挙の間は、選挙について書いたブログの文章(この前の2つの文章)を転載していました。
そうすると、コメントとかいただくことも多く。
その返事を書いていたら、ものすごーく長くなったものがあって。
せっかくなので(笑)逆輸入してブログに転載してみます。

☆☆☆

**さん、私が書いたことに、やさしくコミットして、本気でコメントもらえて嬉しいです。
私が選挙で盛り上がってるの、「意外な感じがする」って、いろんなところで言われました(笑)。

かなり私はよくばりなので、内面を成熟させて充実させて、できればいつも心地よく穏やかでいたいのですが、同時に、外の現実世界だって、もっと心地よくていいんじゃないの?と思ってました。
でもこんな小さい私1人がそう思っても、できることなんて限られてるし。とも思ってた。

今回、ちょっとスピリチュアルっぽい言い方すると
「あ、ここか。あの人たち、ここに結界張ってたんだ!」って見えてきたの。

その、政治に希望を持てなくさせる結界。興味をなくさせる結界。

私、まんまとハマってましたが、映画「マトリックス」みたいにズポっと首の後ろから何かが抜けたような(笑)。
そこにアクセスする入り口が、私にとっては三宅洋平だったのですね。

「現実世界の心地よさ」に向かって、自分も参加し経験できるんだ。と気づいたの。
よくばり屋さんとしては、せっかく人間に生まれてきたので、いろんな次元をいっぱい体験したいし。

もしまだ見てなかったら、よかったら動画で三宅洋平の街頭演説を観てね。
あ、そっか、ここで政治やっていいんだ。みたいな。
結界がほぐれつつあるのが感じられるかも。

もちろん「全然感じない」って人もいるよ。
それはまた別のお役目があって、別の次元から今の事象を眺めてるのだと思うので、それもまた良し。

やっぱり政治や選挙については、私たち初心者(笑)は、ビジョンに共感できる人が現れないとコミットするのは難しいと思う。だから、そういう人が現れてからのタイミングの人もいると思う。
三宅洋平が口火を切った。歴史の転換点がきた。ここから。気づいた人が、どんどん立ち上がってくる。
それぞれが魅力的な、様々なビジョンを持った政治家が現れる。
その各自のビジョンに共感した人が、また気づき、立ち上がり…どんどん世界が動き始める。

…と、そんなイメージかなあ。
これをマインドで見ると懐疑的に感じるけど、ハートから見てみて。とってもまろやかな世界だよ。内側と外側は同じだから。

しかも、ムリに頑張ったり努力したりするんじゃなくて、
「みんなそれぞれが、政治に対してしたいことをただ実行する」だけ。
自分が思うこと、気づいたこと、やりたいことを素直に表現する。
それはおそらく、
なんとなく嬉しくて部屋に花を飾ってみたりとか、
ふと気が向いて、夕食のおかずを一品多く作ってみるとか、
ニュアンス的にはそんな感じにちかい、ちょっとしたことの延長線上。

1人1人がほんのちょっぴり今よりも生きてる世界を意識化して、
現実との繋がりを感じて、
ハートで感じたことをそのまま行動にうつしていく。
きっとそれだけで結構カンタンに変容が起きる感じがする。

ただ、それぞれはほんの少しの持ち寄りでいいんだけど、たくさんの人が必要。
でもそれも時間の問題かと。
最近、以前よりも多くの人が普通に瞑想とか始めたり、どんどん内面の世界を探求しているけど、ってことは、同時に外の世界も探求されつつあるのだと思います。

もちろん、今の政治を見てるとダークな部分とか、いっぱいあらわれて辟易することも多いんだけど。うわ、触りたくない、みたいに思ったり(笑)。
でも、だからほっとく、のではなく。
現実をまず受け入れて、応答する。
光があたって可能性が見えてきたからには、できる範囲で関わっていこうかなと。

たとえば、もし家にゴキちゃん(笑)が出たとしたら。
「居心地わるいけど、どうせ1匹いたら100匹いるんだし」と、諦めてほっとくのか。
退治の方法が見えてきた人は、応答して、駆除したくなると思うのです。

じわじわと、おそらく四半世紀もしないで、
たくさんの人が自分なりに動いて、世界が変わっていくんじゃないかなあ。

…って、これ、最初の日記より長いのでは(笑)。
私は表現してみないと何を考えてるのかわからないので、
こうして書く機会をもらったことで
「なるほど〜。そんなことを思ってるのか、ふむふむ」と自分でも新鮮です。

せっかく書いたから、これをブログにもアップしよっと(笑)。
まろやかな世界へ。
ふう。振り返ってみたら、長いようで短かった選挙期間がおわりました。
選挙にこんなに興味を持ってコミットするのは、3年前に続き2回目。
本当に応援したい候補がいる、ということが、どれだけ毎日をエキサイティングでワクワクさせたでしょう。

その、応援していた三宅洋平が落選したのは残念ではありますが。
彼が出馬してくれたおかげで、今回も様々な新しい可能性や、心に豊かなものを感じられる実り多い日々でした。

選挙区外だけど、自分ができる精一杯の応援はしたよ。
政治献金(笑)してみたり、公選ハガキを友人知人に暑中見舞いがてら送ってみたり、電話で選挙の話をしてみたり。
そういうの、もろもろ人生初体験(笑)。ちょっとドキドキした。
迷惑に思われたらどうしよう。とかね。
でも意外とスルーされるどころか、ハガキ届いたよ〜ってメールが来たりして。
「久しぶりだね〜」とお互いの近況を報告、旧交をあたためる機会になったり。
いろんな未体験ゾーンにドキドキ突入した日々でした。


三宅洋平は、今まで政治に興味を持てなかった人たちにも理解できる言葉や表現を使う。
ハートにするりと入ってくるメッセージ。
しかも、本気で、命かけて、全力。

私みたいな「興味ないどころかむしろ苦手」だった人間にも納得でき、理解できる選択肢とビジョンと姿勢を伝えてくれる。
おかげで視野が広がって、もっともっとこの世界をいっぱい体験し、本気で遊び、味わい尽くすための方法を、また一つ新しく手に入れることができました。
すでに選挙をこれだけ楽しめる自分になってるし(笑)。

きっと私と同じようにフレッシュな体験をした人、いっぱいいると思う。

新しい潮流が、これまで以上にくっきりと肌に感じられる。
たくさんの人が、世界と自分自身の関わりに気づきつつある。
種がブワっといっぱい蒔かれた。
この種が発芽して、いったいどんな世界になっていくのか。わくわく。

みんなが幸せになっていくためには、もちろん、私が毎日お仕事で関わらせていただいているような心の部分、スピリチュアルな面はすごくすごく大事。
そして同時に、政治や仕事、お金の仕組みといったような、現実世界のあり方も、もっと変化する必要を私は感じてる。

だけど昔は「きっとそれは難しいことなんだろうな」と思ってた。
だけど、今はそう思わない。光がみえてきた。というより、ずっと前から存在していた可能性に光が当てられた。

私たちはやればできる。

そのためには、まずは多様性が大事で、たくさんの選択肢があることが大事で。
そこに様々な意見の、沢山の人がハートと好奇心を持って参加していくことで、エネルギーがより細やかに動き始める。
そしてもっともっと、やわらかで、まろやかな世界が生まれてくる。
…そんな感じがする。
おお、まろやかな世界。いいね。意図しよう。居心地よさそう。
やっぱり書いてみるのは大事だね。書いて初めて自分の感じてることがわかってきた(笑)。

新しい世界を感じさせてくれるビジョンは大切。
見えたものをわかる言葉で表現してくれて、どうもありがとう。
きっといろんな場所で、芽が出てくるね。広く広く。あちこちで。

私自身も、今回得たものを大切にはぐくんでいこうと思う。
言葉には表現しきれないから、自分という存在そのものが、それを表現できるようになればいいな、と思う。
ゆっくりゆっくりだけど、世界が素敵に、まろやかになっていく…そんな気配の発芽を感じられました。

選挙が、こんなに豊かさを届けてくれるなんて。
本当にエキサイティングで充実した時間を、どうもありがとう。
せんきょ。
もうすぐ参議院議員選挙の投票日。
私は3年前の選挙のとき、三宅洋平の広島での街頭演説を聴いて以来、選挙に対する意識が180度変わった。
というか、無意識の闇に封印していた「政治」という領域に、彼のおかげではじめて光が差し込んだ感じかなあ。人生にまた一つ新しい世界が入ってきた。

昔、911の時、NYのビルが崩壊するのを見て、
「あれ?私が生きている世界って、もしや私が思っていたのとは違うのではないか?」と心の奥が気づき始めた。
大変な事件だったけど、おかげで世界の現実を観ていこうとする姿勢が生まれ、それにより、生き方も変化した。
これも何度も書いてるけど、ある意味、私がライターをやめ、タロットリーダーになったのは911の影響が根本部分でかなり大きい。

三宅洋平との出会いも、刺激としてはそんな感じ。
「あれ?私が当たり前だと思っていた日本の構造は、もしや思っていた以上に深刻で、しかも全体の意識変容しだいで、けっこう思っているよりは簡単に変えられるのではないか?」と、気づいたのだ。

それは彼の言葉によって意識化されたわけだが、彼に影響されて感化されたのではない。
彼の言葉はあくまで触媒だ。
彼の言葉によって、自分自身の内側にすでにあったものが共鳴して目覚めるのだ(だからこそ彼の街頭演説に万人単位の人が集まるのだと思う)。
あのNYのビルの崩壊が、私の見ないふりをしていた封印を崩したように。

以前の私にとって、政治や選挙なんて、ただの「むこうの世界」の茶番劇。だった。
時折TVで国会中継とかやってても、同じ人間が営んでいる場とはとうてい思えない。ぜんぜんリアルさを感じられなくて。

で、選挙の時だけ、不思議な人たちが突然世間にあらわれ、拡声器でがなりたて、選挙カーで名前だけを連呼し、手をふり、ペコペコとお辞儀をする。そして選挙が終わると去っていく、謎の部族。…という認識だった。

まるで、なるべく国民に関心を持ってもらいたくないための演出(笑)ではないかと。
本当に投票してほしかったら、もう少し興味持ってもらうように工夫するよね。

もしかして、今のままの政治の状況をキープしたい人たちは、国民になんとかして政治に興味を持たれないよう、必死で工夫してるんじゃないかと思ってしまう。

前回、与党の自民党に一票を入れた人が1700万人くらい。
そして選挙に行かなかった人は5000万人近くいるのだそう。

てことは、今の与党に不満を持つ人が、仮にその中に半分の2500万人いて(持つ持たない、ざっくり確率的にね)、その人たちみんなが投票したら?
今の政治で利益を得ている人たちは、不満を持っている人たちが選挙に関心を持つことを最も恐れていると思う。
だから「私が一票入れたって、どうせ影響ないし」と思わせるように、精一杯頑張ってるのだ。きっと(笑)。

なので今の行政のあり方について、日常のどこかで不満を誰かに話したり、感じたことがある人は、どんなに忙しくても選挙には行ったほうがいい。
「どうせ意味ないし」「よくわかんないし」とか思っている、昔の私のような人も。

私が3年前から変わったのは、政治と選挙は私の生活に直結している。という実感だ。
全然違う部族がやってる謎の儀式ではないのだと。
政治は私たちの一票が集まることで、本当に変えていくことが可能なのだ。

と。
いろいろ書いてはみたけれど、私の日記を読んでくれてる人は、たいがい選挙に行く人だと思います。

でももし「今回は忙しいからスルーしようかな〜」とか、
「もともと興味ないから、投票しない主義です」とか、
たまたま、なぜか、ちょうど、この文章を読んでいる人の中にいらっしゃれば、

とりあえず、今回だけでも行ったほうがいい。
直観がこれを読ませたと思って(笑)。

今回は現行憲法をどうするか、について自分の意見を出す最後の機会だと思うから。

私個人は、今の自民党が出している憲法草案には納得できないので、護憲派に一票入れますが、どんな意見の方であれ、自分の意思を表明したほうがいい。
ある意味、憲法どうする?の国民投票みたいな。

ちなみにこういう、個人的な政治への意見を表明したり書いたりすることも、多くの人にはタブー視されている感覚がある。
でも「政治」という言葉が、普段使い慣れてないから気色悪いだけで、それはイコール「生活」なのだ。生活と直結してるから。
「自分たちの日々の生活を今後どうしていきたいか」について語るのは、自然なことなのではと思う。

…とか思ってるので、長々とめずらしく選挙について書いてみました。
こんなこと書く日がくるなんて、3年前までは想像もつかなかったなあ。
もしこれで、誰かが一人でも行く気のなかった投票に足を運ぶきっかけになれば、と願って。

ちなみに、もし三宅洋平を知らない人がいたら、YouTubeでちょこっと街頭演説を覗いてみてください。
前回は全国比例で18万票近く集めたものの惜しくも落選(これより少ない得票で当選してる与党の候補もいたなあ…)。
今回は東京都で出馬してるので、広島では投票できませんが、毎日の演説がYouTubeに即行アップされます。

今まで選挙に興味がなかった人には、なおさらオススメ。
考え方や意見はどうあれ、きっと選挙に参加してみたくなると思います。
ぜひチェックしてみてね。
私も今の期間「今日はどんなライブだったかな」と毎日楽しみにYouTubeみてます(笑)。

というわけで、なんにせよ今週末7月10日はぜひ選挙に行きましょう☆
共感する力。
かなり唐突ですが、先日、痛ましい結果となった、イスラム国による日本人人質事件について思うことを書いてみようと思う。
正直いうと、この事件について私が何か書くようなことがあるとは思わなかったです。今もね。いったい何書くんだろう?って。
でも今になって心を静めてみると、じわじわと染み出す何かがあって。それが何かを、知りたいような。知りたくないような。
で、しばらく放置した結果「すっきりしたい!」気がしたのです。
書くことで気づくことって結構あるからね。
自分が何を感じてるか知るための文章です。
こういうときって、たいがい長い文章になるので、苦手な方はすっとばしてください(笑)。

こういう出来事は、何日か経つとほとんどニュースに扱われなくなる。
もちろん、それが悪いわけじゃない。人は生きていて、時間はどんどん進んでいく。その間にも、たくさんの出来事が起きている。
ひとつひとつの事にしがみついていたらキリがない。
でも、その出来事が起きたことで、自分の内側に起きる何かがある。
それをスルーしないで、自分なりに整理したり、理解したり、その出来事により「何らかの変化した自分」を確認して、そこから次に進むことが大事な気がしている今日この頃です。
そうすれば執着しないで先に進めるから。

さて、この事件が大きく取り扱われていたとき、私は普段と変わりなく仕事して、ごはん食べて、友人と笑いあって、楽しい事もいろいろやってました。
でも、やっぱり、どこか心が重かったように思う。
言葉にするとしたら「こうしている間にも人質の方や身近な方々のご心痛はいかばかりか」という感じか。
別に、私が心配したからといって何の力になるわけでもないのに。
…と、またその無力感とかも混じり合って、どこか申し訳ない気持ちでいるわけです。それが静かな喫茶店の邪魔しないBGMのように、ひっそりと、でもしっかりと何をやってても心にかかっている。という。

まあ、事件を起こした側はそれが狙いだと思う。
「私たちは、これまでアメリカなどからたくさんの苦しみを被ってきた。罪のない一般市民や子どもが殺されてきた。この苦しみがどんなものかお前たちも味わえ!」ということだろうから。いわゆる「報復」なのだと思う。

私はその狙いにまんまとハマって、苦しんでしまうわけです。
といっても、人質の方や、以前のイラク侵攻や、今この瞬間にも行われているらしい闘争や空爆によって失われている命を考えると、恥かしいほど薄っぺらい苦しみですが。

不思議だけど、人は自分がある事で苦しんだら、
「それと同じ苦しみを他の人には味わってもらいたくない」
と思ってもいいはずなのに(だって苦しいのを知ってるんだから)、
「他者にも同じ苦しみを味わってほしい」と思うほうが簡単みたい。
心は易きに流れやすい(でも結局、それが「報復」になるから、ほんとは根本的には「易き」じゃないんですけどね〜)。
もちろん、こんなことを書いてる私もそうだ。
たとえば、自分があることで大変で苦労して頑張ったのに(たとえば確定申告の作業とか(笑))、
家族からは、私が感じてるほどには共感が得られてないとき。
「え〜っ、あんな大変なのに!だったらあの苦労を一度味わってみるといいよ」って(笑)。

本当はそんな自分ではありたくないのだけど、
たぶん「共感を求める心」がそうさせてしまうのだろう。

ああそうか。だったら、苦しみをわざわざ誰かに体験してもらわなくても、
共感さえしてもらって、気持ちに寄り添ってもらえれば少しは癒されていくし、起きたことを受け入れる勇気ももつことができると思う。

少なくとも、私はそうだ。
どんな苦しいことが起きていても(たとえば母が亡くなった時とか)、それ自体はもうどうしようもないことだとしたら、その苦しみにしっかり共感してもらっている、と感じることができれば、前を向いて歩く気になってきた。

そういえば、カウンセリングとかセラピーの場でも、共感とか寄り添うということを大事にするものね。

もしかして、こういったテロとか、今地球上に起きているゴタゴタがさらに複雑になってしまう原因は「共感の足りなさ」にあるのかも、とふと思った。

最初の原因はいろいろあるんだろうけど、そこから報復につぐ報復、のパターンが繰り返されてしまう原因は、最小単位でいうと「共感不足」なのではないだろうか。

もちろんテロなんて行為そのものは決して許されることではない。
でも「許さない!」と声高に叫ぼうが、その動機を解明しようが、
誰も既に起きてしまったことを元に戻すことはできない。
もし起きた原因を突き詰めたとしても、元にはけっして戻らない。

大変なことに巻き込まれた人たちも、それはどこかではわかってると思う。
でもそういう人たち(自爆テロをしようとまで思い詰める人々は、いったいどんな想像を絶する人生を歩んできたのか)が「前を向いて進もう」という気になれるほどには、世界からの共感が感じられないのではないだろうか。

経済や思想などの、あらゆるパワーゲームの中で、一般の罪のない人々が、こんな理不尽な目にあっているのに、世界に共感してもらえないことに悲しみと怒りがるのではないか、と思った。

ああこれか。私が心の奥底でじわじわ滲みていたのは。
そういったことに対して、私には共感力が圧倒的に足りなかった。と感じていたのだ。

実際、今回の事件にしても、私がここまで心を寄せているのは、たぶん日本人の事件だったからだ。
本当はこれまでに、他の国の人が同じように人質になっているのをニュースなどでみているのに、私は今回ほどにはリアルに感じていなかった。
それは単純明快、他国の人は私にとって遠い存在で、私にはそういう人に共感できるだけの器がなかった…というか共感力が弱かったのだ。

もちろん今の瞬間にも、世界にはいろんな問題や紛争が起きていて、どんなに共感力があったとしても、現実として全てを共感することはムリだと思う。

ただ、今回の事件が起きたことに刺激され、何もできなかった私が、地球上において今後少しでも何らかの形で自分を役立たせていきたい。と思ったとき、
地道に、少しづつでも共感力をパワーアップさせること、共感する器みたいなもの?を大きくしていくことが大切なのではないかと。

そうして、もし可能なら、人それぞれが今以上の共感力を持つなら、
地球上に起きることに対して、共感の総量が純粋に増えることになる。
そういった共感が増えることによって、何らかのムーブメントが起きたりして、
状況がより全体的に緩和されていく可能性もあると思う。
そもそも、そうなるためのピラミッドの底辺にあるべき「共感」の量が圧倒的に少ないのだろうな、と思ったの。
スポーツでもプレイヤー人口が多いほど栄えて、優秀な人がでてくるでしょ?
そんな感じで、とりあえずピラミッドの底辺で共感をちまちま大きくしていこう、と思った次第です。
そして、ピラミッドの底辺を広げたほうがいいと私は思うので、
せっかくここまで書いたからには、ここまで読んでくれた方にもいちおう共感力について意識することをお勧めしておこうかと(笑)。

ちなみに、共感力というのは、同情してその安っぽい感情にしがみついてしまうことではない。
本当に何の判断もなく寄り添って、受け入れて、そのことを感じる力。

世界中にテロや空爆、さまざまな紛争、トラブルがあって、それをダメだというのではなく、ただ本当に感じて受け入れる。
そして、受け入れたら応答する。
「(受け入れた今)それで、私にできることは何?」と。
そして、今できることをやる。
そのときの「自分そのまま」のことを。
私がこの文章をなぜか書いているのも、今回の起きたことへの私なりの「応答」かもしれない。

共感力があるほどに、きっと世界中の様々な事情に思いを馳せることが可能になっていくのだろうな。
それは自分の器の大きさにもつながってくるような。世界を臨む視野の広さにもつながってくるような。

世界にはいろんな考え方があり、どれが正しくて正しくないかを言い出したら永遠に終わらない。
私には、どう考えても、あるひとつの思想やシステムで世界を一色に染め上げることは難しいと思う。
ゆっくり時間をかけて、それぞれにより苦しみの少ないバランスのとれる落とし所を探っていくしかない。
しかもそれは何か固定された完璧な目標でもない。地球の環境や人類の状況により臨機応変に変えていく必要がある。諸行無常。
…と、書いただけでも難しそうなことだけど、一足飛びに全員が歓びに満ちることは無理としても、今の私が(何百年かかろうと)その方向を目指すとしたら今できることは「共感すること」だと思ったのです(というか、書いてるうちに思ってきた)。

このご時世、私達はどうしても自分のやることだけでせいいっぱい。なぜか慢性的に忙しいようになっている。だから共感してるヒマもない。
でも、共感できないから、共感しあえないから、こんなに忙しく頑張ってるのに、その割には豊かさや喜びを感じられないのかもしれません。

もしみんなが今より少しづつ共感力が強まったら。家族や恋人を思うような方向性で(同じくらい、は無理としてもね)世界に起きている事を感じることができたなら。何かが変わってくる気がします。

まあこれも現実味がないと言われたらそれまでですが。
そもそも「これ、書いておきながら自分にできるのか?」みたいな。
ただ、私はそう思ってたのですね。書いてみたら。
そして、自分に出来ない可能性がこわくて、このじわじわ滲みていたものを知りたくなかったのかも。

今回の事件自体、起きたことはもう元には戻らない。
でも尊い命が失われたことにより、きっと私と同じように、いろんな方がいろんな場所で、心のどこかにこの出来事が触れて、その人のどこかに変化を起こしている。
そのこと自体が大切なことだと思う。
その変化を無意識下に閉じ込めないで、意識に上げてくることで、
あのお二方と私は(もっといえばイスラム国とも)関わりをもったことになる。
彼らと関わったことによって、私はまた少し変化したのだと。
できうればそれが成長であればいいのですが。

私もこの事件を、時間がたつにつれて忘れていくと思う。折にふれ思い出すくらいで。でもそれでいいと思う。世界はどんどん変化しているから。
ただ、自分の内面に起きていることは流さないで受けとめて関わっていこう。

それが、少しづつでも変化し成長していくことが、今回亡くなられたお二方への私なりの手向けになるのではと。そんな気持ちでいます。

今回のことをきっかけに、また世界に気づきが起きていることに感謝して。
お二人の、心よりのご冥福をお祈り申し上げます。

そして同時に、ニュースにはならないけれど、今このときにも空爆などで命を落としている、名前も存じあげない人たちのご冥福もお祈り申し上げます。

私達がみなさんの犠牲をしっかり受け止めて、一歩一歩、平和な世界に向かっていけますよう。
どうぞ天から応援していてくださいね。

春の風
今日は風が強い。
桜はどうなってるだろう、と気になって。

仕事前に、横川のギャラリーカフェ「カモメのばぁばぁ」さんで開催されている、たなかさとしさんの作品展に行ってきた。
たなかさんの、ふんわりとした優しい作風がとても好き。
コーヒー飲みつつ、たなかさんとちょっぴりお話して、ちょこっと絵ハガキも入手して。

その後、優しい気持ちになったまま、気になってた川沿いの桜並木もお散歩してきました。
まずは横川えびす(変換できない!あのエビスが出ない!)神社におまいり。
桜が散り始めているから、境内は桜色のじゅうたんが敷かれたかのよう。

でも、並木全体の感じでいうと、まだまだ満開の樹木は多い気が。
満開の桜の下のベンチで、しばし黙想。
防寒態勢ととのえてきて、よかった〜。
少し小雨も混じる時間で、他には誰もいませんでした。

ピューピューと冷たい風が吹きすさぶ中、桜の枝もしなるしなる。
すでに花粉が運ばれた花たちは、潔く散っていくけれど、
それがまだ達成されてない花たちは、枝から離れる気配もなく、けなげにしがみついていて。本当に愛らしく元気いっぱい。

小鳥たちが枝の間をあちこち飛び回って、桜の蜜を堪能してる。
どうやら桜にも、樹木で蜜の甘さに差があるらしく、小鳥が群れてる樹木はわりと決まってる感じなのが面白い。

そういう蜜の甘そうな樹は、花の散り方が他とちょっと違う。
小鳥が花をパチパチついばんじゃうから、花びらだけでなく、一輪が丸ごとクルクルと舞い落ちていくものが混じるのだ。
花が落下傘のような役割なのか、ゆっくりクルクルと舞い落ちていく様は、それはそれで不思議な優雅さがあって。

そういえば、先日桜にもらったメッセージ。
「満開であることを許しなさい」について、
今朝、起きる直前のまどろみの中で、ついに「ああ、そうなのか!」と自分の中でつながったところ。

うまくいえないけど(本当はもっと微妙なフィーリングなんだけどね)、
満開を許すと、散ってしまうじゃないか。
…みたいなニュアンスで無意識に構えてる部分があった。

だから、何かをギリギリ満開直前で寸止めして、キープしようとしている感じがあった。そうしないと散っちゃうぞ、みたいな。

でも、そうじゃない。

満開を許すと、次のステージに進むことができるのだ。

今朝、ストン。と理解した。
あまりにストレートに理解したので、
それを満開の桜に会って実際に確認したかった。
夢ではないか?とホッペをつねるような気分でね。

春の風の中、会ってみて、やっぱりしっくり納得した。
「ほんとだね、ずっと満開だと次のステージにいけないね」
「だろ?これで俺らが、もし秋までずっと満開だったらどーする?イヤじゃん?」
思わずプッと笑ってしまった。
秋まで満開し続ける桜を想像しちゃったから。

すべてにおいて、現状維持はあり得ない。

この言葉を、本当には全くわかってなかった私が、少しだけ理解が深まったように思いました。

「何かを失う」ということ自体が苦手な私は、毎年桜に執着を手放す特訓を施されています。
桜が散るのを見るたびに、失うのがイヤなあまりに、美しい風景の中でどこか苦しい気持ちになってました。

でも特訓のおかげで、年々いつのまにか、その執着が軽くなってきている感じがします。

桜のみなさん、どうもありがとう。

満開を許して、次のステージに進みますね。

かなしみ
とつぜん 唐突に 悲しみがやってきた

今 頭で考えるかぎり わたしの どの状況をみても
感謝と祝福こそあれ 悲しむ要素など どこにもないのに

でもハートには 突然 悲しみが押し寄せた

なんだかハートがキュウウってなって
涙がポロポロこぼれてとまらない

きっと 何らかの過去の感情が 姿をあらわしたのだろう
どことなく 懐かしい感触があるから

こんなときは とりあえず しっかり 悲しんでおこう

わけのわからない 悲しみを そのままたっぷり味わおう

奥の奥まで さらに その奥まで
深く深く 潜ってゆこう

ああ 思い出した

同じようなことが 数年前にもあったっけ

ああ 思い出した

こういう 悲しさって
たしか 奥の奥まで 行き着いたら

いつのまにか 美しさに 変わるんだった

今回は そこまでいけるかな
いけるといいな

あの シンと静まりかえった場所

静謐で 360度みわたすかぎり純白の
雪原のような 極限に美しい世界まで

なにがおきてるか わからないけど
とりあえず 今は いっぱい 悲しもう

涙が枯れはて 疲れはてて
いつのまにか 眠りにつくまで


マンガラ追悼
すっかり時間が経ちましたが、昨年10月、私にタロットと数秘術を教えてくれたイギリス人のマンガラが、肉体を離れました。

もっと前に、このことについて何か書きたい感じはあったのだけれど。
あまりにもいろいろな想いがぎゅうぎゅうとまとめて押し寄せて。
全然まとまった言葉にならなかった。

今頃になってようやく自分を客観するための何かくらいは書けそうな気がしてきたので、とりあえず書いてみる。長いかも。


その訃報を2日後にきいたとき、急なことでビックリした。
だいたい年1回ペースで定期的に日本を訪れて、ワークショップを開催していた彼女。
たしかに前年は病気療養中とのことで来日しなかった。
でも、以前にも持病の腰痛が悪化して来れない年もあったし、また良くなれば来日するだろう、と気軽に考えていたので本当にビックリした。
寝耳に水。しばらくは何の反応もできなかった。
そして、しばらくしてようやく事の重大さに気づき、涙がボロボロ溢れてきてとまらなくなった。

そのとき、
「泣かないの〜」と、マンガラがやってきて、笑いながら、あのフワッとした独特のフィット感でハグしてくれた感じがした。涙がとまった。一瞬ね。

マンガラと私は、時間的にはそれほど長く親しい関わりではない。
ちょうど10年前に出会ったのだけど、そこから会ったのは5〜6回かなあ。
てことは、ざっくり計算すると、この10年で延べにして1ヵ月ほどの関わり方なのだ。
しかも私はそんなに英語が喋れないので、込み入った会話や親しい話を交わすこともそんなになかった。
それなのに、与えてもらったものはとても大きなものだった。

マンガラ、ありがとう。
この人生であなたに会えて本当によかった。
マンガラと会ってなかったら、私の人生は全く違うものになっていたと思う。

そもそもタロットと数秘に出会ってない。
そして、タロットや数秘が見せてくれる内面宇宙の意識の奥深さを、こんな風に店を作って、みんなとシェアすることもなかったと思う。

今こうして、毎日たくさんの人とセッションして、意識変容のお手伝いができる人生になったのも、元はといえば、つまり彼女と出会ったからだ。

たぶん、でも、ずっと前から会うことになってたんだろうね。
逢える人とは、いつか必ず会えるから。


それまでの私は、スピリチュアルとか占いとか、全くの懐疑派だった。
「星占い?人類12分割して何がわかるの?」みたいな。
なんせ興味がないので、関わる気持ちも知識も何もなかった。
私の人生には存在しないも同然の分野だった。

それが10年ほど前のあるとき、ある人から唐突に
「あなたタロット、絶対向いてるから」と言われたのだ。「はぁ?」

全然知らない、食わず嫌いな世界のものをいきなり「向いてる」とか言われ、しかも「絶対」とか言われ。
そんな経験がなかった私は、なぜか珍しく拒否しなかった。少し興味を持ったのだ。
そして「ちょうどもう少ししたら、イギリス人の素晴らしい先生が来日するの。
年に一度なのよ。よかったら教えてもらったら?」
と、そのタロット講座のチラシまで受け取って。

が、そのチラシを見たとたん、私は即座に諦めた。
時間とお金が予想以上に必要だったから。
当時の私の感覚からすると、興味本位で学ぶにしては、その受講料金はとても高くて手が出せなかった。

もうひとつ講座の日数は、週末を2回使って6日間。
その頃の私は雑誌のライターの仕事をしていて、週刊や月刊の連載を4つくらい抱え、並行して企画特集記事も定期的に担当し…と、文字どおり休みが1日も取れない状態が普通だった。
1〜2日ならともかく6日はとても無理だな、と。

で、仕事に忙殺され、すっかり忘れていたあるとき。
ひょんなことから臨時収入が入ったのだけど、それがほとんどピッタリ、その講座代金だったのだ。
つい「あ、これはあのタロットのお金だ」と思ってしまった。
そのお金をみて旅行好きの私のこと、「あ、ハワイに行ける」とか思ってもいいはずだ。なのにタロット用だと思ってしまった。

しかも仕事も、週刊連載が一つ終了することが決まり、スケジュール的に、ちょうど講座の期間中なら、休みをとることも可能…という状況がなぜか突然おとずれていた。

そんなわけで、全く何もわからず、タロットの予備知識もないまま受講しに行った。
いろんな流れが、その講座へ行くように示している気がしたから。
「占いなんて興味のない私がいったい何をやってるのだろう?」と訝りながら。


実際に体験してみると、マンガラのタロットは、懐疑派の私がそれまで勝手に想像していた「占い」とは全く違っていて、自分の意識に気づきをもたらすツールだった。
おかげで受講を始めて間もなく「占い」への偏見は解かれ、懐疑的な感情はなくなった。
が、それまで「自分の内面と向き合う」ということを殆どしてなかった私には、講座で伝えられた内容は、最初さっぱり理解できなかったのを覚えている。

ただ、マンガラという人物は最初からとても印象的だった。

たぶん、私がマンガラからそのとき伝えてもらったのは、タロットの知識ではない(あの時点ではまだ何も理解できてなかった。それらは後付けしていったものだ)。

彼女は「そのものの本質」を伝えてくれていた。
つまり「本質をありのまま伝えるとはどういうことか」を教えてもらったのだと思う。

それに気づいたのは、講座の3日目くらい。
ようやくスピリチュアルな専門用語にも慣れ始めたころ、受講者の誰かが
「これは良いカードなのか、悪いカードなのか」みたいな質問をしたのだと思うが、それに答えてマンガラが、
「この世界には良いも悪いもないのです」と、さらりと言い切ったのだ。

私はそのときの彼女の在り方に驚いた。
というか、ようやく「良いも悪いもない」という言葉の、本質を伝えてくれる人に出会ったと感じたのだ。
なぜなら、その言葉が、その発された瞬間にハートに入ってきたから。ストンと腑におちたから。

もちろん言葉としては、以前から知っている。
今までにもそういうことを言う人にはいろいろ出会っていたし(毎日いろんな方々をインタビューする仕事でしたからね)。
でも今思えば、その言葉を、本質的な確信を持って言っている人に会ったことがなかった。
たぶん、その人たちにとってもそれは単なる知識で、本当の意味では理解していなかったのだろう。
だからいくら言われても、理屈としてはわかってもハートには入ってこない。
なので、こちらも流しながら頭で受け取って知識として聞く、という感じになる。
でも、それが普通一般だし、そういうものだと思ってた。

でもマンガラが「良いも悪いもないのです」と言ったとき、本当にひと筋のブレもなく、確信を持って本質を知っているところから言葉を発したのだ。
それで私は瞬時に
「ああ、良いも悪いもないんだ」と深い実感として伝わり、理解した。

理解がくるのは一瞬だ。
それを本質で伝えられる人がいてくれたら。

私は英語があんまり話せない。講座も通訳の方を通して行われる。
だから、言葉自体は日本語で耳に入るのだけど、その本質はそのまま、彼女の持っているものが言葉ではないところで伝わってきたのだ。

それ以降、講座の間中、ひんぱんにそういう体験をし、
まだタロットそのものの理解はできてなくても、これは私にとって大事なものになる、という予感を、その講座で手に入れたのだった。

そしてその後も、マンガラの在り方を味わいたくて年に一度の来日に合わせて行けるときには行くようになり(それで数秘術も学んだわけです)。

彼女はあらゆる方向から、いろんなことの本質をストレートに伝えてくれた。

講座に行くたび、そのときの自分に理解できる限りの最奥まで行けることが多く、新しい自分を発見することができ、おかげで今の私がいる。
彼女に出会う前の私にくらべて、どれだけ意識の在り方が変化したことだろう。

最後に会ったのは2010年の秋。
広島に移住した年に、店を休んで東京に会いにいった。
「広島で夫と2人、猫2匹とのんびり店を出している」と近況報告したら、それは良かった、と笑ってたっけ。

本当にマンガラは私の人生にとって大きい存在だった。
私も彼女のように、本質そのままを伝えられるように、あるがままをシェアできるようになれるといいな、と心から思う。


死にゆく人は、いつも大きなギフトを届けてくれる。
親しい人が肉体を離れるたび、私は成長させてもらってると思う。

彼女が肉体を離れたのを知ったとき、泣かないの〜とハグしてくれたとき、
実は、2〜3の個人的なメッセージを届けてくれた。

その瞬間、何かが私の中で自動的に解放され、手放された感じがあった。

そのときには何が起きたかわからなかった。
ただ、最近になって感じているのは、セッションのときカードを見ていつものように口を開けると、以前には表出したことのない言葉や表現が現れるようになっている。

何かが解放され、カード一枚一枚のエネルギーに対して、以前より自由な認識と拡がりが出てきたらしい。
「え、そんな読み方するの?」と私自身が驚くような新しい発見が毎日のように現れてきている感じ。

知らないうちにカードのエネルギーに枠というか制限を設けていたのが、一気に解放されて360度の自由度でリーディングしてる感じで、果てしなく面白い。
それは私にとって大きな変化だし、また少し成長したということだろう。
素晴らしいギフトを届けてもらったと思う。


最初に学んだ時点では、頭ではさっぱりわからなかったけど、やってみるとタロットは私にピッタリ合っていたと思う。
そしてそれはマンガラだったからこそ、理論ではなく、タロットの魅力と魔法をダイレクトに伝えてもらえたのだと思っている。

そういえば、一番最初に「タロットってどんなものだろう」とマンガラのセッションを受けたとき。
彼女の第一声が「あなたはタロットリーダーになる可能性があることを覚えておいてください」だった。
その当時は「そのリーダーってどんな機械なんだろう?」くらいに思ってたのだけど、言葉としては不思議と覚えてた。
そしていつの間にか、タロットリーダーになってる私がいて。

先日ちょうど「マンガラのエッセンスを味わいたいから」と、セッションに来られた方がいました。
その後、メールが届きました。
「あゆたやさんを通じ、マンガラのタロットや数秘に触れる機会をいただいて感慨深いです。肉体を離れてなお出会いや繋がりをもたらすマンガラという人の愛の深さに感銘を受けます」と。

ほんとうに。私もマンガラに出会えたのは大きなことだったので、その歓びをセッションという形でシェアできるのは嬉しいことだと、あらためて思いました。


そう、いつもマンガラとハグすると、ちょっと独特な感じがあったのを思い出す。
ボディの感触が、肉体というより、もっと密度が薄くて軽くてふわっとしてる。シフォンケーキのような。
彼女とハグすると、独特の軽みに包まれて自動的に優しい気分にさせてくれるのだ。

それが、今もときおり、そのマンガラの感触にふわっと突然抱かれるときがある。
「その感じでOK、GOOD」と言われてる感じ。

それは別にタロットをやってる時ではなく。
朝の光に包まれているとき、陽射しのぬくもりにほっこりしてるとき、何かとても心地よく、充ちているとき。
「そう、あなたはその場所にいるだけでOKなのよ」と言われてるような。
「そっか、”ここ”にいればOKなのね」とニッコリする私。

肉体を離れてなお、やさしい関わりを持つことができ、大切なことを教えてくれている。

これからもマンガラから伝えられたことを大切にし、私の内面で育み、時間と流れのなかで、必要な動きと発展性をもって自分なりの形で世界にシェアしていこうと思う。
それが一番マンガラに喜んでもらえると思うから。
マンガラ、本当に本当にありがとう。
感謝をもって、先に進んでいきますね。
御大切。
この前、河合隼雄と遠藤周作の対談を読んでいて、
かくれ切支丹の話になったとき、遠藤さんが話した一言が印象に残った。

「(当時は)「愛」という言葉の翻訳がないので「御大切」という言葉を使っていますね」と。

御大切。
そっかー。そうだそうだ。
と、妙に得心しました。

あの頃は「愛」って言葉を使ってないのですね。
(としたら、いつ頃から「愛」という言葉が一般的になったのかも気になってくるけど、まあおいといて。)

私は、日本語が好きだからか、昔ながらの日本人だからか(?)、
「御大切」という言葉をきいて、「愛」という言葉よりも、その本質にほんの少し近づけたような気がしました。
感触がわかるというか。

この世界、ベタなようだけど、結局は愛が大事。だと私は思う。
そう思ってる人はけっこういる、とも思う。
でも、なんというか、「愛」と一言でまとめられても、それは何か?どんなものか?と、深く突き詰めるとかなり難しい。
概念になってしまいがちな感じ。
まあ「愛」自体は、最終的には自ら体験するしかないものなのだろうけど、
今日は、その言葉、文字のこと。

人はそれぞれみんな、各自の「愛」のとらえ方がある。
そのオリジナルの繊細さを言葉にすることは難しいので、みんな「愛」というたったひとつの文字にその表現を委ねることになる。

でも私は、うまく説明できないのだけど、じつは「愛」という文字を観る時、自分の感じているその感情をしっくりと重ねることができてないのでした。

それに気付いたのは、この対談の言葉に出会ったからなのですが。
微妙な違和感というか、ちょっと距離がある感じ。
もちろん、これまで生きて体験してきた「愛」というもののデータみたいなものは重ねられるのだけど、そこから抽出されているであろう、現時点での私の智慧レベルでの「愛」が重ならない、フィットしにくい感じ。

でも、文字としてそれしかないから「そういうもの」だと思ってた。

そこに、この「御大切」ですよ。

おおっ!と思った。
今の私の触れてるものに、より近いものをこの言葉が持ってた。
より精密に感じると「お大切」かな、私的には。

つまりどうやら私は、文字もタロットっぽく、象徴やシンボル的に観ているのではないかとも気づきました。

その対談の主流の話でもなんでもない、ほんのちょっとしたエピソードだったのだけど、私には大変嬉しい衝撃がもたらされました。

最近、本を読む量が減ってたんだけど、こういう愉しい不意打ちがやってくるから読書ってあなどれない…と思った次第。
ついつい、この嬉しさを表現したくて(伝わるかどうかは別として)、言葉で説明しにくいものを無理矢理がんばって、こうして説明してみたりするエネルギーもやってくるしね。

そんなわけで、これから「お大切」という言葉、だいじに愉しく、私の感じているままに使っていこうと思います。
突発性感謝症候群
私の持病のひとつに「突発性感謝症候群」というのがある。
勝手に名付けたオリジナルですけどね。
症状は名前のとおり、
突然あらゆるものに感謝の気持ちが起きまくる。です。

これだけ聞いたら、悪くない感じでしょ。
もちろん、ハートの感じとか気分は最高なんですよ。
でもね、あらゆるものに感謝して感動して感受していると、
通常でさえ苦手な、日常の生活行動が遅々として進まないのです。

たとえば、朝起きて。

聴こえてくる鳥の鳴き声に感謝。
その多様性、その喜びあふれる音色、全てが天国の音楽のよう。
満足しきるまでじっくり耳を澄ます。

廊下を素足でひたひたと歩く。
その触感と適度なひんやり感にニンマリ。
足が交互に廊下についたり離れたりする、その奇跡に感謝。

水道の蛇口をひねる。
窓から射す日光でキラキラした美しい水が、私の掌の中に勢いよく入り込んで渦をまく。
そのエネルギーのダイナミズムを手の中で感じられることがありがたくて、ただただ感謝。

もちろん、それを洗顔のためにパシャっと顔に触れる瞬間ときたら!

そして洗いたてのタオルにふかふかと顔を埋めてモフモフする幸せ。
ついつい必要以上にモフモフモフモフ続けてしまう(以下略)。

…と、一事が万事、こんな状態になってしまうのです。

たぶん、憶測ではありますが、これはつまりオープンハートになってるって事だと思います。
2歳とか3歳くらいの時に味わっていた、世界に対するフィーリングと似てる気もする。
本当に気持ちいいんだけど、この世界をずっと味わっていたい気分にもなるけれど、
時間の概念がなくなってしまうのが悩みどころ。

たとえばセッションのご予約を頂いていたりとか、時間という流れの中で人と関わる仕事をしている者としては、
お客さんに迷惑かけたくないし。
でもついつい今あるものに夢中になって、その場にじっくり腰をおろしてしまって、
そしてまた時折、ハッと現実に戻ってきたり。
その行きつ戻りつの葛藤の感じさえ、けっこう気持ち良かったりして。きりがない!

…という感じの症状なのです。
まあ現実社会の時間の中で、あたふたと「生活」をこなしているうちに(てか、そこはほとんどダンナにフォローしてもらってるのですが)、いつのまにか自然に元に戻るので問題はないんですけどね。
(ちなみに、この症候群のタイミングでセッションするのもまた楽しい!)

で、ちょっと前まで、症状出てました。
今は戻ってきた感じ(出てる時は、キーボードとか打てない。無理)。ただいま。

突発の原因はいろいろです。
今回はたぶん、先日のレイ・ハラカミの訃報が届いたのをベースにしながら、
ハチロクの日に訪れた、不思議な静けさと祈りのエネルギーがパカっと開けたような気がしてます。
前回は、明け方にふと窓を開けたら、西の空に沈みかけの満月の輝きを一目見ただけでパッカーンと開いたなあ。
原因不明も多い。朝起きたらハートがオープンになってました、みたいなのも。

今回はいつもとオープン具合が少し違ってた感じがあって(新しいオープンハートの質感を体験しました!これを喋ると長くなりそうなので今回はパス)、
そのせいか、戻ってきてから「このこと、自分の記録として日記に書き留めとくといいかも」という発想が生まれたのでした。

こうして客観的(?)に書いてみて思ったのは、
よく書物とか、いろんな場面で「オープンハートが大事」みたいなことを耳にしますが(魂の通訳してると、たしかにそういう旨のメッセージも多いです)、
現在の、時間に追われやすい社会でオープンハートになるのは、リスクが高いんだろうなあということ。

だってたとえば、あの状態で通勤ラッシュの山手線に乗るのは私には無理。
つまり今の社会環境では、一般的にはクローズするほうが安全なのだ、と。

小さい頃はみーんなオープンハートだった。
それがいつのまにか安全を手に入れるためにクローズするようになっていく。
私だってオープンハートは、気持ち的には喜ばしいけど、現実の状況としては「症候群」っぽくなる。
もし山手線通勤してて、朝ハートが開いてたら私だったらサボるもの。オープンハートは(状況によるけど)社会生活に影響を及ぼしやすいんだと思う。

開いたってことは、それはつまりデリケートになるって事でもあるから、傷付きやすくなったりとか、いろいろめんどくさかったりするしね。
でも毎回、症候群のたびに日常生活に苦労しつつも「やっぱオープンハートは気持ちいい!」と思います。

私の個人的な見方だけど、ずっと開いてると大変かもだけど、たまに開くと「感謝のど真ん中」みたいなのがドコーンと味わえて、いろいろ総合的には生きやすくなる気がする。
たとえば、逆にハートがオープンしてなくて、何となく重苦しい感じの時もいっぱいあるけど、そういう時も特に困らなくなる。悩まない。開くときには開くと思えるから。

結局、陳腐な言い方になっちゃうけど、要はやっぱりバランスなんでしょうね〜。

あれ、こんな長い話を書くつもりではなかったのに。何でしょうね。
まあでも、おかげさまで、こんなことを思ってたのか〜と認識できました。

意外な長文にびっくりしつつ、今日はここまで。
まだまだ感謝の余韻はあるから、気持ちいい音楽ききつつ、美味しいものでも食べてから寝よっかな〜。

…と、ここまでは3日前に書いたもの。
書いただけで満足してしまって、その日は「日常行為」が難しかったので(汗)、ネットにアップする行為ができませんでした。で、そのまま忘れてました。

…という感じが、生活に微妙に支障をきたす症状なわけですね。

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