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「色川」の思い出 〜後編〜
「色川」は6代続く、由緒ある老舗の鰻屋さん。
ランチ時、店の外には行列ができ、ウナギを焼く香ばしい匂いにお腹を空かせながらしばし待ちます。

カウンター越しに見る大将は、いかにも江戸っ子の雰囲気ムンムン。
炭火で焼きつつ、煤けた白いウナギ用の団扇をハタハタさせながら、仏頂面、いや真剣な顔で、ウナギに向き合ってます。
出てきたうな重、当然美味くないわけがない!

食べ終わってから、このまえ取材依頼した者です、と伝えました。
「美味しかったです!大将がまずは来てみて、と言われた意味がよーくわかりました(笑)」
仏頂面がニヤリと笑う。
「何だよお、人が悪ィな。こっそり黙って食ってるたぁ(笑)」

そして、いろんな話に花が咲き。
以来「浅草特集」だの「ウナギ特集」だの、事あるごとにいろんな取材をお願いさせていただくようになりました。


一言で、大将を会ったことのない人に説明するとしたら
「天然記念物に指定してもいいほど生粋の江戸っ子」です。

私は東京に住んでいながら、それまで時代劇や落語の中でしか「江戸っ子」に会ったことがありませんでした。
それが、大将を目の当たりにしてからは
「ああ、江戸時代のこの辺には、こういう人がいっぱいいたのかなあ」
と、ものすごーくリアルに感じ、より時代小説や落語が立体的に味わえるようになりました(笑)。

きっぷがよくて、気が早くてケンカっぱやくて、三社祭が人生一番の生きがい…とか、そういうスペックも、当然ベタなくらい「江戸っ子」です。

でも、説明としてはそうなるけど、私が当時いちばん鮮烈に感銘をうけたのは、

自分にとって何が大切なのかがわかっていて、それが一切揺るがない。
という点です。

仕事に振り回されがちだった当時、大将に出会えたのは本当に幸運でした。
自分自身にとって、いったい何が大切なのか。
それを思い出させてくれたような、我に返らせてくれたような。

己に対して誠実であるとはどういうことか、を見せてもらったような。

もちろん大将だって人間だから、弱い部分はいっぱいあったと思う。
でも私が接していた面、仕事に関する意志は確実に強く、揺るがない。

たとえば、最初に取材したときのこと。
カメラマンに撮影してもらう際に、
「どうすんの、うな重のアップ撮るの?お椀や香の物も入れるの?」
「はい、お椀もお願いします」
「蓋するの?」
「はい、蓋します」

そこで普通の店だったら、蓋するんだから、空のお椀を持って来てくださる場合が多い。
だけど、大将は言いました。

「そうか、じゃあお前、こっちきて見てろよ。いいな、これお椀な。ちゃんと見てるか?」
「はい」
「いいか、そら、中身を入れるぞ…ほうら、入った。いいか、見たな、蓋するぞ…これをここに置く、と。さあ撮れ」

大将は、お椀の中身が入ってるか入ってないか、たとえ目には見えなくても、それをカメラマンがちゃんと知って感じているかどうかが、撮影の質に影響することを知っているのだ。
その微妙な差へのこだわりと姿勢。

あるいは、個人的に食べにいったある時。
あまりの旨さにしみじみ感動し、カウンター越しについつい
「もうっ、なんで大将のウナギはこんなに美味しいの〜っ?」
と、感嘆詞と同じ感覚で大きな声を出したことがあります(笑)。

私としては感嘆詞レベルなので、まさかキチンと返事が戻ってくるとは思ってませんでした。でも、ちゃんと丁寧に応えてくれたのです。

「んー、俺にとって、これは勝負なんだよな(ニヤリ)」

「…勝負?」
「うん、俺ァやっぱ”こーゆーの”好きだろ?(と、ここでシュッシュッと、シャドーボクシング風パフォーマンス。「こーゆーの」イコール喧嘩とか闘いとかってことだと思う)何でも勝負がいいんだよなあ。すると気合が入る」
「はあ」
「まずは誰よりも早く起きて、築地まで自転車こいで、その日のいちばんいいウナギを全部掻っさらって来る。
選ぶのを卸の奴に任せたり、店まで持ってきてもらうようじゃダメだ。適当なの持って来るからな。
最近のやつはウナギの良し悪しも分からねえ。だから俺が全部さらってやるんだよ。カカカ」
「そんでもって、今度は仕込みな。丁寧にさばいて、くし打って、蒸して。その間、ずーっと「絶対勝ってやる!」と思ってる」
「で、開店だ。客が入って来るだろ。今か今かと待ってるだろ。俺ァ、炭で焼いて、煙まわして、いよいよ勝負の時が近い。この間もずーっと「勝負だ、勝ってやる!」って思ってんだよ」
「ははぁ…」
「で、焼きあがって、飯敷いて、のせて、蓋して、「はいよ、お待ちどう!」とお客さんに差し出す。そんで、お客さんが蓋を開けて…「勝負あり!」だ(ニヤリ)」

細かい言葉の言い回しはさておき、この会話は昨日のように覚えてる。

まさか、こんなに全力で朝から勝負ふっかけられていたとは。
そんなの、最初っから客に勝ち目はなく「美味い!」と言っちゃう手以外は残されてないでしょう(笑)

…と、そんな感じの人でした。
他にもいろいろ「思い出」となると、書きたいことはいっぱいある。

三社祭の神輿は「絶対にハナをとる」のが彼の矜持。
ハナというのは、お神輿を担ぐにあたって、担ぎ棒の一番メインの場所らしく。
その場所を、祭が最高潮に盛り上がったタイミングで誰がとるか…というのが、大将的にはこれまた「勝負」のようで。

あまりのハナに対する執念から、大将は「ハナ=87」という数字が好き。
店の電話番号にも87が入ってます。1187。イイハナ。

そして浅草寺の除夜の鐘。
大晦日、近隣の檀家さん?が一回づつ鐘をつくらしいのですが、その順番をクジ引きで決めるのだそうです。
で、大将は87番がいいので、くじを引く時に

「87、87、87、ハチジュウナナ〜〜〜っっ!!」
(と、くじを引くときの気合の入れようを、実際に目の前で再現してくれます。それはもう凄いです。昔あったマンガ、北斗の拳の主人公ばりです)

と、気合を入れて引くからか「そんで毎年、87番を引くんだよ」という。
除夜の鐘、毎年87番目。
「壁にかけてあるのは全部それな。「浅草の七不思議」なんだよ」
たしかに、当時壁には「八十七番」と書かれた短冊が何枚も飾られてました。

こればっかりは、にわかには信じがたく。
きっと住職さんやお寺のクジ係の人が、気合に負けて87番にしてあげたくて、なんか細工してるんじゃないの?とか思ってましたが。
でも半分は「あの気合なら、あり得るな」と思ってしまうこと自体がもう魔法。
なので、今思えば、やっぱり七不思議なのだろうと。

とかなんとか思い出話、いろいろ書いてしまいました。
長くなったけど、これは私の色川の大将へのオマージュでもあり。
他界したことを知って以来、何となくずっとこれを書きたかったのだと思います(書いてみて、ようやく気づいた)。

もう大将の「勝負のうな重」がいただけないのは残念だけど、
こんな人と出会えたことに心から感謝します。

素っ裸で、誠実で、いつでも真剣、いつでも本番。
それを体現していた大将を見ているだけで、毎回元気をもらえました。

「いつでも真剣勝負」の情熱、私も見習いたいと思ってます。
本当にありがとうございました。

追伸。
書き終えてから知ったネット情報を。
大将は2014年の3月24日に他界されましたが、
亡くなる前日まで普通に仕事をしていて、終わった後に「具合が悪い」と救急車を呼んで、
翌日にこの世を卒業されたとのこと。
ほんとに、最後まで粋な江戸っ子でしたね。
「色川」の思い出 〜前編〜
このまえの時間をはずした日は、土用の丑の日でした。
ネット上でもウナギの話が数多くあがっていて。
どんだけ日本人はウナギとコミットしているのだ。としみじみ感銘を受けました。

そして今日は、私も遅ればせながらウナギの話を。
というより、浅草の鰻屋さん「色川」の大将のお話を。

この前の「天然ウナギ」の記事でも言及しましたが、
私は東京にいる頃、ウナギと言えば浅草の「色川」まで出かけてました。
でも広島に来てからは、たしか311前に一度食べたきり。
以来、なかなか都合もつかず行けてません。

それが先日、東京出張の際にふと「久しぶりに色川の大将に会いたいなあ」と思い立ち。
ちょこっとネットで調べてみたら…
なんと、大将は2014年に他界されたとのこと。
今は女性2人で(おそらく奥様やご親族でしょうね)お店の味を守っておられるそうです。

そうだったのか…いつの間にか、この世から卒業されていたなんて。
まだまだ先だと思ってたけど、気が早い江戸っ子らしいなあ。とも思う。

なんとなく、大将のいない色川に入る気持ちの準備ができなくて。
結局、東京滞在中は行きませんでした。

というわけで。
そんなこんなの中、哀悼の意にかえて、色川の大将との思い出を書いてみたくなった次第。
おそらく長いぞ(笑)。



色川の大将との出会いは、取材依頼がきっかけでした。

当時の私は雑誌のライターをしていて、それはそれは忙しい仕事でした。
いつも何本もの締め切りに追われています。
その原稿書きの合間をぬって、編集者と打ち合わせ、企画に沿ったアポイントをとり、取材をこなします。

なので、食べ物やエリア特集などで何軒もの店取材が必要な場合、行ったことのない店には電話で取材をお願いし、当日初めて体験する…というケースがほとんど。

取材がきっかけで知らないスポットや人物に出会えるのは、この仕事の醍醐味でもありますが、
同時に「できれば自分が予めその良さを体験して、納得の上で紹介したいよな〜」という理想もあって。
でも、この業界のスピードからしたら、そんなことはまさに理想でしかなく。
毎日とにかく夢中で、目先のことをこなしながら駆け抜けていたわけです。

そしてある時、浅草特集だったかな。クチコミで(当時はネットではなく本当にクチコミです(笑))美味しそうな色川をリストアップして。
編集からOKが出たので、さっそく依頼の電話をかけたのでした。

「はい?」
「あの、雑誌〇〇ですが、今回の浅草特集で色川さんをご紹介したいと思いまして…」
「ふーん。いいけどさ、あなたはウチに来たことある?」
「えっと、あの、すみません、まだ伺ったことがなくて(汗)」
「ああ、じゃあさ、とにかく一回ウチに来てよ。取材は全然いいんだけどさ、まずは来てもらってからじゃないとわかんないでしょ?うんうん、じゃあね(カチャン)」

「…」
私は、電話が終わったあと、しばらく動けずにいました。
うまく説明できませんが、そっけないのに不思議にあたたかい何かを感じたからです。
そして(なんとかして行けないかな…)と思いを巡らせてる自分がいました。

ちなみに普段だったらコレ、取材を諦めるケースです。
何と言っても、締め切りが目前に迫ってますから。

ライター同様に編集部も時間に追われてるので、特に週刊誌など、企画自体あがってくるのがギリギリです(きっとどこの業界もそんな感じでしょうね〜)。

なのに発行日は絶対。締め切りだけは決まっていて、その間に担当カメラマンと私の空いてる日程を調整し、こちらの都合にできるだけご配慮いただいた日に取材を敢行するわけです。

逆に言うと、いくら紹介したいスポットでも、締め切りに取材が間に合わないなら諦める場合も少なくありません。

大将が言ったのは「取材はいいけど、まずは来てみてね」という、至極真っ当な話です。

でも現実問題、1日は24時間しかなく、締め切りまぎわの記事のために2度訪問する時間を費やす…というのは、当時の状況においてはかなり難しいことでした。

なんだけど、どうしても気になって。
結局は無理矢理にスケジュール調整して(2晩くらい徹夜する感じに詰めて)、まずはお客さんとして食べに行ったのでした。

どうしてそんなに気になったのか、自分でも不思議だったけど。
今思えば、大将は素のままの自然体で電話に対応してくれたのだと。
そこに潔いほどの誠実さを感じたのだと思います。

私たちは社会生活を送るとき、意識的無意識的関わらず、多くの場合、何らかの「仮面」をかぶって対応します(専門用語ではペルソナっていうみたい)。
「私は社会に対して、こういう人だと見てもらいたい」とか、あるいは
「社会に対して、こんな風にしていれば安全だろう」という仮面。
それがどういう表現であったとしてもね。
常識的な社交辞令のフレーズを言い回すのも仮面。
豪放磊落な明るいムードを出すのも、優しさを出すのも仮面。

んー、「仮面」だと語弊があるとしたら、お化粧する感じ?
お化粧やファッションと同じように、その”人格”を身にまとって外出する。

たとえば私だと、お仕事してる時は、家にいる時より「やさしい人」的なペルソナをつけてると思うなあ。意識して頑張ってるわけじゃないけど、自然にそうなってる。

私はかなり裏表がないほうだと自分でも思ってるのですが(結構ジマンの領域です!)、それでもやっぱり、こうして振り返ってみると、家にいる時とはちょっと違うと思う。

でもそれは社会に出るときの、私たちが教えられてきた普通な在り方です。
スッピン、素っ裸、家のパジャマのまんまで社会に出てくる人は少ないと思います。
(あっ、私は化粧しませんが(笑)。でも流石にハダカでは外出しません(笑))

取材依頼の電話口ではなおさらです。私を含め、ほとんどの方は仮面をつけています。
なのに、大将は素っ裸だったの。そのスッピンぷりが際立っていたとでもいうか(笑)。
ある日突如、気持ちよさそうに街中をハダカで歩いてる人と出会ったような、不思議な気持ちになったのだと思います。

仮面をはずした人を前にすると、なぜかこちらの仮面もはずれます。
忙しさに振り回されている私を、ハッと我に返らせてくれたような。
「ほんとそうだよ、そうだった、まずは行ってみないとね」
と、さっそくスケジュールをやりくりし、色川を訪れたのでした。

うーん、ここまで、色川の思い出というより、ライター時代の思い出になってるなあ。
ようやくここからか。どうやら長くなりそうなので、前後編に分けることにしました。
今日はここまで〜!
赤ちゃんのここち
先日、常連のお客さんが、生後2ヶ月の赤ちゃんのお顔を見せにきてくださいました〜!
妊娠される前、いや結婚前からご来店くださっていて、ついに赤ちゃん誕生!ということでご挨拶にきていただいて、私もしみじみ感慨深く。

こんな、地上に降臨されたばかりの赤ちゃんに会えるとは。
なんせ2ヶ月ですよ。生まれたてホヤホヤ。
親類縁者でないと、なかなかこの時期の赤ちゃんに会える機会はありません。
いや〜、赤ちゃんパワーにクラクラ☆
まさに天使、天の使いです。

生まれたての赤ちゃんは、天国からのエネルギーをたくさんお土産に抱えて、この世界に降りてきて、みんなにギフトしてくれる。
出会う人にすべてに、分けへだてなく降り注いでくれる。

泣き声とかもう、私には天のシャワーですね。
特に生後3ヶ月くらいまでは何の自我もなく、ただ泣きたいから泣いていて。
そのピュアなエネルギーが身体に染み渡る。
生きてるぞ〜!っていう命のピュアさが、ハートにあったかいのです。
まあこれは第三者だから気軽に言えるだけで、泣かれるお母さんは本当に大変だし、赤ちゃんもいろいろ伝えたくて大変だとは思うんですけどね。


話がそれた。それで、ご来店くださった赤ちゃん、
この世界にご降臨ホヤホヤですから。
そこにいるだけで店の空気が清浄になっていく。
横にいるだけで、ほわほわと優しい気分になって。
ありがとうね!遊びにきてくれて。

そして赤ちゃんパワーは翌朝まで続きました。
翌朝、起き抜けに
「あ〜、生きてるな〜。私、生きてるんだ〜」と、いきなり幸福感に包まれる。

昨日、赤ちゃんにもらった感覚が、より結晶化したような。
なんというか、天国気分。
これ、もしや赤ちゃんのときに感じる居心地なのかも。

おだやかで、緩やかで、やさしい風が肌を撫でるような。
ほっこりと心が和らいでいく感じ。
南の島で、ぬるい風に吹かれてポーっとしているような。

なんだろう、感謝かな、愛かな、ふあふあ〜っと、やはらかいきもち。
信頼、かな?
赤ちゃんがお母さんや世界に対して、全てを委ねて信頼している、その心持ち、かな。
恐れがないから、縮こまらない。外にふわりと身体が拡がっていくような。
…みたいな、そんな素敵なフィーリングが届きました。

実は私も、おそらく生まれたての頃と思われる感覚の記憶がひとつだけあって。
でもそれは、あんまり心地よくない記憶(笑)。

なんか、暑くて、身体にまとわりついてるものがゴワゴワと邪魔で、
うーん、思うように身体が動かせないよう!みたいな、暑い中でもがいてる感覚が残ってるの。

私の推測では、きっと生まれたばかりの頃(夏生まれだから暑いのがその証拠)。
それまでは裸のまま、暑くも寒くもない子宮の中でつるんと心地よくしてたのに、生まれてみたら、おくるみに包まれてしまって(お母さんが誂えてくれた、地上の物質の中ではできる限り柔らかくフワフワの布のはずですが)、ゴワゴワして重くて動きにくかった記憶なのでは?と思ってるのです。

でもそういう不快な感覚だけじゃなく、本当は、この朝のような心地よい感覚の体験も持っていたんだと。
私の奥底に眠っていたその感覚の記憶を、前日に来てくれた赤ちゃんが甦らせてくれたんじゃないかと思います。

ほんと赤ちゃんパワー、翌日までありがとう!
ギフトをありがたく頂戴いたします。最高に気の利いたプレゼントでした〜。
命の潮流
秋に入って、勢いのあった夏の生命力が、少し落ち着いてきた感じがします。
先日、玄関先を掃除しているとき、
片方の翅がボロボロの、でも、とてもとても美しい、真っ白い小さな蛾が目にとまりました。

どうやらまさに虫の息、この世を卒業しかけている場面に立ち会ったようです。
もう飛ぶことはできませんが、地面を這ってがんばって動こうとしています。

この出会い、もしかして彼女が呼んでくれたのかな。
この世からの卒業を見届けるお役目をいただいた気がして。
よし、お役目をしっかり果たさなきゃ!と、掃除も中断です。

彼女は今生を生ききったかな。
命は次世代につなげただろうか。
どんな一生だったんだろう。

そんなことを想ってるうち、ついに動かなくなり。
卒業したのかな?と、少しだけ、そよ風のつもりになってフウ、と優しく息を吹きかけてみたら。
またピクっと、ほんの少し動くのです。歩こうとし始めるのです。

最後まで全力で生ききろうとする、白い小さな美しい蛾。

気づいたら、いつのまにか涙が頬をつたっていて。

そして本当に動かなくなるところまで見届けることができました。

命のエネルギーが、ふたたび宇宙に戻っていく瞬間を見届けられて。

そのとき。この世界に滔々と流れる命の潮流を、久しぶりに感じることができました。
ほんの時折ですが、この潮流に出会うときは、いつも畏敬の念を覚えます。

私がこの、命の潮流を初めて意識的に知覚したのは、4〜5年前の車の中でした。

車で店に通勤途中、おそらくカナブンのような甲虫が、
ゴツン!と、音をたてて勢いよくガラス窓にぶつかってきて。
そしてあっと言う間もなく、一瞬のうちに跳ねとんでいきました。

あ。死んじゃったかな。と、思ったそのとき。

今見たカナブンの命、そのカナブンまで連綿と繋がっている先祖カナブン達の命、彼らの仲間の種族、関わりのある植物、樹木、動物、そして人間 etc…と、カナブンから繋がって一気に、この世界の全ての中に流れている命を、その循環している大きな潮流をドドドドーーーーーっと、音をたてて流れているかのように一瞬に知覚したのです。

命は循環している。ということを言葉としてではなくリアルに感じた瞬間。

私たち生命は、この世から去ってはまたやってきて、巡り巡って命の流れを、宇宙の流れのリズムを体験している。
カナブンも、私という命も、その流れの中のほんのひとすじに過ぎないし、でも同時にすべてでもある。
宇宙の共有された命の全てでもあり、その一部でもある。

…ということを、カナブンのぶつかった一瞬に感じとったのでした。

以来、ときおりその潮流に触れる機会があって、
そのたびに遥か彼方までひろがる世界に、滔々と流れつづけている命の存在を感じ、
細いひとすじながらも、そこに確実に繋がっている自分を知覚する。

それは畏敬の念と同時に、安心感とくつろぎを感じる体験です。
ここに触れるたび、まるでバカボンのパパのように
「ああ。これでいいのだ」と、
何が「これ」かさえわからないけど、深くそう感じるのでした。

これでいいのだ。
カープ優勝によせて。
ついにやりましたね〜。カープ、25年ぶりのリーグ優勝。おめでとうございます!
優勝が決まったあと、夜空の下に出ることがありました。
なんとなく、普段とは空気の気配が違うように感じました。

いつもより軽やかな。ふわっと広がるような柔らかい感触。
みんなの歓びのエネルギーが影響してるのかな。

空気感はまた少し違うけど、ハチロクの朝、いつもと違う空気になってるのに気づくような、そんな感じ。

実は広島に来るまでは、野球自体にそんなに興味がありませんでした。
プロ野球にどんなチームがあるのかも漠然としか知らなくて。

しかしやっぱり、広島に住み始めると、自然にカープ色に染まっていくようです(笑)。

あちこちでカープ情報を目にし、耳に聞くので、いつのまにか選手の名前と顔が繋がったり。
いろんな店で「昨日3対1でカープが巨人に勝ったから本日ガソリン何円引き!」とか「現在カープは◯位!」とか、看板出したりしてるので、試合やニュースを見なくても、試合結果を知ってしまったり。

いつのまにか、それなりにカープが身体に馴染んでくるのです。

カープパワーすごい。ていうか、ファンの方々のカープへの愛がピュアでひたむきなんだよね〜。

そんな、広島におけるカープ愛のすごさ。を初めて体験したときのことを思い出したので、ちょっと書いてみようかな。



それはまだ、横川に占猫をオープンして間もない頃でした。

とりあえず店はオープンしたものの、土地勘もなく完全アウェイ状態。
横川がどんなところかもわからない。
なので時間を見つけては、ふらふらと横川探索し、いろんな店に立ち寄ったりしてました。

そんな中、ある焼き鳥屋さんに入ったときのこと。

あとで知ったけど、そこは元カープの選手が経営されている店だとかで、カープの選手やOBも結構見かけるのだそう。
そして私が初めて行ったとき、私の隣にちょうど、広島では有名なカープOBの野球解説者の方が座ってらしたのです。

しかし、もちろん、ぜんぜん知りません。

フツーにカウンターならではの会話を交わすうち、どうやらカープ関連の有名な方、というのが薄々わかってきました。
でも逆に、なのに名前も知りません。とは言えない雰囲気になってきました。

しかも解説者さんの連れの方が、そんなあやふやそうな私を訝しんで、
「もちろんこの人のこと知ってるよね、まさか知らないの?」的な感じの話を振ってこられるのです(汗)。

ここで変な知ったかぶりをしても、どうせバレるのがオチです。
「あの、すみません、私、1ヶ月くらい前に東京から来たばかりで、カープのことも野球のことも、よく知らないんですよ〜」と開き直りました。

そうすると、その連れの方は大変に驚かれました。
「えっ⁈じゃあ、野球みてないの?」
「ええ、そんなには…(汗)」
「じゃあ、サンフレッチェだ。サッカー?Jリーグ?」
「えっと、Jリーグも、あんまりわからなくて…(汗)」

それを聞いて彼はさらに驚きました。

「えっ…(本気モードの絶句)…じ、じゃあ、人生、何が楽しみなの?」

こうして書くと、これ、結構深い質問ですね。
確か答えられなくて、どうでしょうね〜とか笑ってごまかしたような。

私はその連れの方の、本気で驚愕していた様子が忘れられません。
お顔は忘れてますが、その時の衝撃度、みたいな。

そっか、広島では野球もサッカーも興味がない人間がいるなんて、想像もつかない方もいるんだ〜!と感銘を受けました。

それが広島に来て最初に触れた「カープ愛」でした。

いや、触れたというより、カープ愛の熱い一撃をくらったのです。
「広島に来たからには、そうと心得よ!喝!」って(笑)。

あ、ちなみに解説者さんも、お連れの方も、気のいい呑兵衛で気さくな方々でしたよ。念のため。

もちろん今は、こんな風に広島市民みんながみんな熱烈なカープファンじゃないことは知ってます。
でも「あんまり興味ない」といいつつ、おそらく私みたいに、何となくは、うっすらと、カープ色に染まってると思います。広島在住というだけで。

そしてそれはけっこう心地よい。
プロ野球の球団、というより「カープ」というエネルギーが普通に広島人の生活に溶け込んでいる感じが。
なんだか不思議なピュアさを感じる、広島の持つ「カープ愛」自体を、私は愛します(笑)。
野生のシカと初めて遭遇した日
この前、宮島で、食べ物を狙って後ろから迫ってきたシカと、結構本気の力くらべになりました。
もう食べ終えて横に置いていたプラケースを食べようとするシカ。
食べれないから!と、口から引き離そうとする私たち。
そのシカの絶対に放すまいとする力強さに、荒ぶる野生の気配を感じて、ちょっと心臓バクバクしたのですが。

それが引き金で、ずっと昔、初めて野生のシカと遭遇したときのことを思い出したのでキロクしようかと。


もう10年以上前かな〜。私たち夫婦は20代の頃に海外を旅しているときから野外で踊るのが大好きで。
日本に戻ってからも、当時シーズン中はほとんど週末ごとにあちこちで開催されていた野外レイヴによく出かけてました。
バイクに2人乗りして、テントや寝袋積み上げて。
忙しい仕事のストレス解消、キャンプも兼ねてのお楽しみでした。

で。あるとき群馬の山奥で行われた野外レイヴに東京から参加するため、真夜中に山道をバイクで走ってたときのこと。

本当は、そんな暗い山道をそんな時間に走りたくなかったのだけど、
たしか急な取材が入ったか、締切の関係かなにかで出発が遅くなったのでした。
会場に近づくほどに山奥で真っ暗。
ライトの光よりもその先は真の闇。
そんな中、手探りのように走っていたら、ライトの先、闇と光の境に、不思議な人影のようなものが。

あれ〜、この人酔っ払ってるのかなあ。こんな夜中にこんな場所で…にしても…あれ?ちょっと、人にしては大きくない?
と、思ってるうちに追いついた、その人影らしく見えたものは、ツノの立派な牡鹿が走っていたのでした。

ええーっ?!シカってこんなに大きいの〜っ?
が、第一印象。

山のようにキャンプ道具を積んだ、二人乗りの中型バイクよりもひとまわり大きい感じがしたのは、実際そうなのか、それともその野生のパワフルなエネルギーに圧倒されたからなのか。

なんにせよ、それは私にとって、初めて野生動物とお互いが意識的に向き合ったときでした。

正直「ビックリ」のひとことしかありませんでした。未知との遭遇。
今までに見たこともない存在の仕方をしている生命が、突然目の前にご降臨、という感じ。
「えっ?こんな風に存在しちゃうの?」と、ただただ新しいものへの驚きにビックリ。

だってね、まずバイクと同じくらいの速度で100キロどころか200キロくらいありそうな巨体がフツーに走ってるの。飛び跳ねながら。
そのたびに、ガツッガツッという重そうなアスファルトの軋み。
アスファルトを後脚で蹴るたびに動く、毛皮の奥の逞しく美しい太ももの筋肉。

そのエネルギーの凄まじさたるや。

もう寒くなりかけた秋の山奥での彼の呼吸は、バフーッバフーッとふいごのような肺活量で、あたりを水蒸気で真っ白にし、雲か霞で身体を包んだ仙人のよう。

リアルなのは、その息や体臭の獣くささ。
おそらく生涯一度もお風呂に入ったことのないシカ君は、気が遠くなりそうな濃厚な香りで。

…とかなんとか、考えてたのは実はほんの一瞬のうち。
それはスローモーションのようなひとときで、未知との遭遇に呆然としているうち、バイクが追いついてシカを抜かそうとしたその瞬間。

シカと目があった。
ちゃんと意識してお互いが繋がった。

でっかい目玉でギロリと睨みあげ、
「おら、お前らどこのモンだ。俺の邪魔するとタダじゃおかんぞ!」
とばかり、突然バオーーーーッ!と首を振り上げて、ツノで威嚇してきたのです。

ほんと、危なかった。
威嚇とはいえ、ほんのわずかの差(10cmくらいかな?)でダンナの腕はツノで裂かれる危機から逃れることができ。
ちょっとでも接触してたら、跳ね飛ばされてレイヴなんて行ってる場合じゃなかったかも。

シカ君的にも脅しのつもりだったらしく、それ以上追ってくることもなく見逃してくれました。

今こうして思い出しても、本当に立派な牡鹿で、しっかり全力で生きてきた生命力そのものでした。
動物園では感じられない、あの形容しがたい躍動感、力強さを体験できたのは人生の宝のひとつです。

ある意味、九死に一生を得て、あの生命力を感じるチャンスをもらえたことに感謝したいと思います。

ちなみにその後、無事到着したレイヴでは、ギリギリ生き残れた高揚感か、おかげさまでエネルギー全開。
まるでシカが乗り移ったかのように、明け方まで踊り続けましたとさ。
めでたしめでたし。
完ぺきです。
この前の道後温泉で、お湯からいただいたメッセージ、
「あなたは既に完璧なのです」
を受けて、ふと思い出した昔のことを書きとめようかと。

***

小学校に入ってすぐの頃。
お絵描きの授業のとき、どうやら水彩絵の具を使うのが難しかったようです。
「ようです。」というのは本人は自覚なくて、それでいいと思ってたから。

水彩ときいて、つまり水をたっぷり流せばいいんだな。みたいな感覚だったので、画用紙の上に水そのものを流すくらいの勢いで描いてました。
おかげで何を書いても、最終的には紙がヨレヨレにふやけた、どす黒いマーブル模様っぽいものしか浮かび上がらない。
「おかしいなあ」と思いつつも、まあ水彩画ってそういうもんだなんだ。と、疑うことはありませんでした。

が。たぶん初めての授業参観にやってきた母が、教室の後ろに貼ってある、どす黒い、何が書いてあるかも不明の、私の抽象画を見て衝撃を受けたらしく。

たしか、それから一週間もたたない間に、近所にアトリエを構えておられた画家の先生のところに問答無用で放り込まれ。絵を習いに行かされたのでした。

いちおう自分を擁護すると(笑)、もともと幼稚園の頃からお絵描き自体は好きでした。
ただ、とても不器用で。
「道具」を扱うことに関して、身体と道具がつながるまでにとても時間がかかるようなのです。
水彩絵の具もクレヨンと違って、パレットだの筆だの水入れだの、道具がたくさんあって複雑で、それぞれと仲良くなるまでが大変だったみたい。

と、たぶん言葉にしてみたらそういうことだと思います。
で、先生はそれを理解してらしたようです。
私の身体と道具がどうつながればいいかを、うまく馴染ませてもらえたような気がします。
おかげで、私の絵の技術は(センスはまた別問題でしょうから)、めきめきとアップして、お母さんもホッとひと安心。
小学2年の3学期に親の都合で転勤するまで、毎週日曜日の午前中、このアトリエに通うのが日課になっていました。

実はあれだけお世話になったのに、先生のお名前も忘れてしまいました。
油絵がご専門だったのかな。アトリエにはたくさんの油絵が立てかけられていて、部屋の隅においてある、板のパレットに載ったこってりした絵の具からも、なんだか大人の気配を感じてドキドキしたものです。

私は絵を描くのも好きでしたが、そのアトリエに行くこと自体が楽しみでした。
絵のほうは気分によっては描きたくない日曜日もあるわけですが、アトリエの雰囲気が好きだったので、結構な皆勤賞っぷりだったと思います

アトリエはまるで植物園の温室のように明るい空間でした。
高い天井から壁まで、3面丸ごとガラス張り(天井は半分くらいかな?あと壁が2面全面ね)なのです。
しかも、いい感じの木々がアトリエを囲んでいるので、まるで木漏れ日のような穏やかな光が降り注ぐのです。

もちろん幼い頃の記憶なので、多少自分の理想にアレンジしてる可能性はありますが、全然違ってる。ということはないと思います。
そんな気持ちのいい空間で、光を浴びながら絵を描く時間はとても至福のひとときでした。

まず、開始時間とか小うるさくありません。
お昼までに終われるくらいの時間で、みんな好きな時にまちまちにやってきます。
適当な時間に行くと、その日に描く対象が、アトリエの真ん中においてあって、みんなそれを囲んで黙々と描いているのです。

ほとんど誰もなにもしゃべりません。とても静かな時間。
ときおり先生が回って、見て、褒めてくれるだけ。
そう、先生は決して直そうとか正そうとかしませんでした。
道具の使い方に困ってたら、教えてくれるけど、絵の内容に関して手出しすることはありませんでした。

そして描きおわったら、先生のところにもっていきます。
先生は、それをしみじみと、しっかりじっくり鑑賞したあと
「素晴らしいですね」といい、
その画用紙の裏に「完ぺきです」と、書くのでした。

後ろに書くコメントは、必ず「完ぺきです」でした。
時々そこに花丸がついたりするので、完ぺきの度合いに多少の差はあるのでしょうが、言葉は常に「完ぺきです」でした。

小学1年生としては、最初意味がわからず。
親に意味をきいて知ったときも
「え。かんぺきなの?これが?」と疑ったものでした。

でも子どもは純粋です。
「先生がいうんだし、そうなのかなあ」と。
そして、だんだん完ぺきであることが当然になってきて、
いつのまにか「完璧な自分」を許している自分がいました。

先生は「私が今までに見てきた大人とちょっと違うぞ」と、子どもなりに感じられた人だったと思います。
言ってることと、思ってることが一致している、めずらしい大人。

それまで知ってた学校の先生や幼稚園の先生は、みんな「好きに描いていいよ」と表面ではニッコリ笑いながら、実際には「ちゃんと(常識の範囲内で)描きなさいよ」的な気配ムンムンでした。
子供はそういう、言葉にしない大人の思いに、その本人よりも敏感ですからね。

でもあの寡黙な先生は、みんなの絵を本当に完璧だと思ってました。
じっくりしっかり鑑賞して、うむ。と頷いて。

道後温泉のメッセージが伝えてくれたように、
「常に今が完璧」であることを、当たり前に理解していた人だったのかな。
と、ふとメッセージが届いたのに伴って思い出したのでした。

ちなみに、その後、私は引っ越してしまい、以来、絵を習うことはありませんでした。
でもそれ以降は、授業で描いた絵がコンクールで金賞をとったりとか、いろいろ入賞するようになりました。
(私自身は、入賞する絵としない絵の差がわかりませんでしたが。)

なんにせよ、先生のおかげで、
絵を自由にのびのびと描くことができるようになって感謝しています。

そうそう、だから私は絵に関しては常に完ぺきな感覚があるのだな〜、と書いてて気付きました。
思うとおり描けない時はあるけど、それでも「完ぺき感」みたいなのはある。
ああ、そっか。人生とか他のことも絵と同じ感覚で思えばいいのか。

いつも、常に、完ぺき。

三つ子のたましい百までも。
幼いころに、いい大人に出逢うのは大事だなあと、あらためて思った次第です。

とても大切なことを思い出せて、よかった。
先生、本当にありがとうございます。
911によせて
また今年も911がやってきた。もう12年前?
10代20代くらいの人には、どんだけ昔話なんだって感じかもしれない。
でも私には、毎年あらためて自分を振り返るいい機会になっている。

911の事件は、私にとってとても大きな衝撃だった。
あの日、内面で何かとてつもない大きな変化のスイッチが入ったのだと思う。

よくよく振り返ってみると、例えば、今タロットリーディングとかやってたりするのも、心の内面に興味をもち意識を向け始めたのも、もしかしたら911が発端かもしれない。

そのころの私は雑誌のライターをやっていて、日々締め切りに追われ、忙しく走りまわっていた。今思えば、大袈裟でなく仕事しかしてないような毎日だった。
でも、とても楽しんでいた。
毎日が充実しているように感じ、たくさんの出会いがあり、日々の体験を浴びるように楽しんでた。
今でもいい仕事だったなあと思う。
でもたぶん、逆にいえば、当時は物事を深く考えるということもあんまりなかった。

何となく、このまま世界はず〜っと、この忙しいながらも充実した気持ちのまま、どこまでも続いていくのだ…と、漠然と信じていたように思う。

それがあの日、911の事件をニュースで知り、ありえない映像をみて。

え?あれ?…もしかして、世界には私が想像もしたこともないような何かが知らない場所で起きている?と、一気に視野が拡がり、目が覚めたような感覚。

現実は、私が勝手に思っていたような世界とはどうも違うらしい、という触感。

その日もまた、いつものように何件かの取材が入っていた。
たしか有楽町とか東京駅あたりのグルメ系特集みたいなので、1日かけていろいろ美味しいものを取材する日だった。
街中のどこを歩いても話題や映像は911一色。
あるお店で、美味しい黒豚のしゃぶしゃぶを頂きながらも、いつもとは違う、説明できない不思議な感覚を味わっていたのを映像的に今でも思い出す。

「何か」のスイッチが奥のほうでカチリ。と入ったのだと思う。
そして気づかないまま、じわりじわりと新しい方向に人生が向かいはじめ。

あの頃とくらべるといろいろ変化したけど、目に見える一番わかりやすい変化としては、あれだけ好きだったライターを卒業して、いつのまにかタロットリーディングを始めていたことだろう。

なんで全然興味なかったタロットとか心の内面とかに、人生が方向転換していったのか。
あの頃は本当に謎だったけど、今では、直接的ではないにしろ、911の影響が大きかったと直感している。

ただ、じゃあ、それはいったい何がどう変化したのか?といわれると未だに説明できない。
それは、この先も生きていろいろ体験する中で言葉になっていくのかもしれない。
でも確実に感じているのは、これがきっと私にとって必要な変容だったのだということ。

911とか311とか、大きな事件は人に大きな衝撃を与える。
本当に心を痛めることだけれど、それだけに人を変容させるパワフルなエネルギーがある。
今までにも、いろんな機会に「911で私の意識(とか人生とか)が変わりました」という人や文章に結構出会ってきた(自分がそうだから、そういうのを引き寄せるのかもしれないけどね)。
大げさに感じるかもしれないけど、あそこで世界の意識が全体として大きく変容したのではないか、と私は思う。

そして311も、たぶん。
私もまだ言葉にはできないけれど、何らかの影響を受けていると思う。
同じように、あの大津波のありえない映像をみて、奥底のスイッチがカチッと入った人は多いだろう。世界中に。

たぶん、それはきっと、今の世界に必要な変容だ。

私のスイッチが911に入って、その後実際にタロットに出会い、さらにお店を始めるまでには数年かかっている。

そんなふうに、じわじわと時間をかけて、世界は変容していくのだと思う。

 911も311も、感情的には、起こらなければよかったのに。と思う。
でも、起きてしまったことは仕方ない。もう元には戻らない。

だからこそ、前向きにとらえたい。
これらの衝撃があったことで、世界中にいろんな変容がおきることを信頼しよう。

今の世界は、どうも混沌としていて、人に不安や怒りをおこさせる要素が多い。
でも911の今日、またあらためて自分に起きた変化を振り返り、
その変容に心から納得している私は、
これからも多くの変容が、個人に、世界に、今まさに現在進行形で起きつつあることを信頼しよう。

もちろん私自身の1日1日にも、そうした「今」に必要な変容が、じわじわと静かに起きていることを信頼しつつ。

毎年911にあらためて思うこと。


8月23日は玄米記念日
(これは2007年8月のmixi日記の再掲載です)


とつぜんですが、8月23日は私にとって「玄米記念日」です。
忘れもしない4年前、2003年のこの日、
「玄米の旨さ」を心底味わって、大衝撃を受けたのでした。

それまでも、たまーにオーガニックっぽい店とかで食べたことはあるけど、
特に興味もなく、味わいみたいなのも意識してなかった。

なぜなら、そのころ玄米を勧めてくれた人のほとんどが、
まず「玄米、身体にいいよ」「健康にいいよ」と言うのです。
その後で「それに美味しいし」と、味についてはオマケのように付け加えられるわけです。

で、基本的に快楽優先の私としては
「そっかー。じゃあ別に健康にいいとかその程度のことでは食べたくないなあ」と思ってたわけです。
炊くのメンド−そうだし、そもそも白米で充分うまいし。

それがある時から、食べることの大好きなうちの相方が玄米に目覚めたらしく。
「うちも玄米にしよう!」と言い出しました。

料理はほとんど相方にお任せしている私に選択権はないはずですが、
まるで保守派の亭主関白よろしく
「えーでも身体にいいってだけでしょ?どーかなー。それに圧力鍋とか土なべとか買うのも面倒だし〜」
と渋ってたら。
とうとう「誕生日プレゼントは圧力鍋がいい」とまで言い出したため、
ついに根負けしてしまったわけです。

そして、その運命の8月23日。
相方が我が家で初めて玄米を炊きました。
おかずも煮物とか、玄米と相性のいいものが少量並ぶ中、
ごま塩をかけて「どうぞ」と差し出されたのを一口食べた途端…

もうね、表現できません。
ぶわっと涙が両目からこぼれ落ちたの。なんでかわかんない。

これまでの人生で味わい体験していた「旨さ」とは全く別の系統の旨さを刺激され、とつぜん世界が広がった感じ。

(もちろん相方はそれを狙ってただろうから)最高級の無農薬玄米を選び抜き、細心の注意を払い、心を込めて作られたごはん。

魂や身体が「そうなんだよ!これが欲しかったんだよ〜!」って、一斉に叫びはじめて、祝福された感じ。

ごま塩なのか涙なのかわかんない塩辛さを味わいながら、滝のように泣きながら、ただただ味わってました。

その時のインパクト、人生が突如ひろがったような感じが忘れられず、また忘れたくもないので、我が家では「玄米記念日」が正式に制定されました。

これで5年目か〜。以来うちで炊くごはんのほとんどは玄米100%です。
そして人に勧める時には「とにかく旨いよ」っていいます。
自分の「旨い」の世界が広がるよ、って。

それをどうとらえるかは人それぞれでしょうが、
なんせ、私は私の感じたことを伝えるしかないもんね。
今回の記念日も、玄米に感謝して心を込めて炊かせていただきました。
(ちなみに自慢じゃないけど、料理は苦手でも玄米だけは炊ける私です)
いや〜、玄米の食える世界に生まれて良かったなあ、と味わいながらね。
911に想う。
もう少ししたら、アメリカ時間での911がやってくる。
毎年、いろいろ考える。
911は、個人的にも大きな出来事だったと思う。
私は911を境に根源の部分で意識が変わった気がするから。

たとえば、一番わかりやすい表立った変化としては
たぶん今おもえば、911があったから、タロットリーディングという仕事を始めてるのだと感じている。

あの頃はライターの仕事をやっていて、忙しいけど充実していて、それを楽しんでた。
逆にいうと、そればかりに忙しくて他のことは何もしてないし、考えてなかった。
すべては仕事を中心にあらゆることが回ってて、それでよかった。

で、ある日TVで、貿易センタービルが燃えてるのをみた。
釘付けになってると、2機めの衝突をリアルタイムで目撃した。
何が自分の中でおきたのかはわからない。
でもあの映像のように何らかの「破壊」が起きたのではないかと感じる。

え、世界はこんな状態だったの?

こんなにも世界に怒りがたまっているのを、どこかでうっすらと知りながら、でも日々の締め切りに追われ、それを良しとし、まあまあまあ…と見ないふりをしてた部分が、目の前で実にわかりやすい形で溢れ出たのだと思った。

私が原稿の文字数で悩んでる時、自爆テロを決意している人が、世界のどこかにいる。
それが、とてもリアルだった。

その翌日ももちろん仕事があって、たしか鹿児島の黒豚だったか、美味しい店の取材
をした。
美味しそうに鍋の中でぐつぐつしている黒豚の映像だけが記憶にある。

はっきりとなにかが変わったわけではないけれど、同じような取材をしていた前日とは、その時の自分の居心地はどこかが違っていた気がする。
ライターの仕事は大好きだった。
けど、これはもしかして私がやらなくてもいいのではないか…という感じが徐々に形になってきて、3〜4年後に会社を辞めた。

そして、何で占いなんてさっぱり興味のなかった私が、いつのまにタロットやカウンセリングとか勉強してるんだろう…?
と、しばらくは本気でナゾだったのだけど、
911で意識がかわったことに気づいてからは、潜在的にそれが影響して始めた感じがしている。
今やってるお仕事に関わるほとんどは911以後に初めて体験したものばかりだから。

きっと私にとって、あの破壊を見たあとの「居心地」的には、ライターよりもタロットのほうが、どこかしっくりきたのだろう。
その想いが何年もかけてジワジワと形になって、
それが認識できたのはほんの2〜3年まえ。気づいて驚愕しました。

911で人生変わった人は結構いるんじゃないかと思う。
私の周りにも、そうやって意識してみれば変わっていた…という人たちはいる。
そこからライター始めてる人もきっといるだろうな。

あの事件はとても痛ましい。
もちろん、あんな事件はないほうがいいにきまってる。
でも、既におきてしまっている今、
あの事件があったことによって、より自分の真実に近づいた生き方を選び始めた人たちがたくさん生まれたことを感じとっていきたい。

たぶん、あの事件から世界中が何かに目覚めたような。

…と、こうして文章にするとなんだか大袈裟に見えてしまうけど、
そんな感じがしてる。

きっとそうやって、世界は徐々に、いい方向に向かっている。そう思う。

とかなんとか、ここ数年、911が来るたびに徒然なるままに思うこと。
しかも、この感じていることも少しずつ毎年変化しているような。
だから今年は書き留めておこうと思って。

また長くなっちゃった。

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