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完ぺきです。
この前の道後温泉で、お湯からいただいたメッセージ、
「あなたは既に完璧なのです」
を受けて、ふと思い出した昔のことを書きとめようかと。

***

小学校に入ってすぐの頃。
お絵描きの授業のとき、どうやら水彩絵の具を使うのが難しかったようです。
「ようです。」というのは本人は自覚なくて、それでいいと思ってたから。

水彩ときいて、つまり水をたっぷり流せばいいんだな。みたいな感覚だったので、画用紙の上に水そのものを流すくらいの勢いで描いてました。
おかげで何を書いても、最終的には紙がヨレヨレにふやけた、どす黒いマーブル模様っぽいものしか浮かび上がらない。
「おかしいなあ」と思いつつも、まあ水彩画ってそういうもんだなんだ。と、疑うことはありませんでした。

が。たぶん初めての授業参観にやってきた母が、教室の後ろに貼ってある、どす黒い、何が書いてあるかも不明の、私の抽象画を見て衝撃を受けたらしく。

たしか、それから一週間もたたない間に、近所にアトリエを構えておられた画家の先生のところに問答無用で放り込まれ。絵を習いに行かされたのでした。

いちおう自分を擁護すると(笑)、もともと幼稚園の頃からお絵描き自体は好きでした。
ただ、とても不器用で。
「道具」を扱うことに関して、身体と道具がつながるまでにとても時間がかかるようなのです。
水彩絵の具もクレヨンと違って、パレットだの筆だの水入れだの、道具がたくさんあって複雑で、それぞれと仲良くなるまでが大変だったみたい。

と、たぶん言葉にしてみたらそういうことだと思います。
で、先生はそれを理解してらしたようです。
私の身体と道具がどうつながればいいかを、うまく馴染ませてもらえたような気がします。
おかげで、私の絵の技術は(センスはまた別問題でしょうから)、めきめきとアップして、お母さんもホッとひと安心。
小学2年の3学期に親の都合で転勤するまで、毎週日曜日の午前中、このアトリエに通うのが日課になっていました。

実はあれだけお世話になったのに、先生のお名前も忘れてしまいました。
油絵がご専門だったのかな。アトリエにはたくさんの油絵が立てかけられていて、部屋の隅においてある、板のパレットに載ったこってりした絵の具からも、なんだか大人の気配を感じてドキドキしたものです。

私は絵を描くのも好きでしたが、そのアトリエに行くこと自体が楽しみでした。
絵のほうは気分によっては描きたくない日曜日もあるわけですが、アトリエの雰囲気が好きだったので、結構な皆勤賞っぷりだったと思います

アトリエはまるで植物園の温室のように明るい空間でした。
高い天井から壁まで、3面丸ごとガラス張り(天井は半分くらいかな?あと壁が2面全面ね)なのです。
しかも、いい感じの木々がアトリエを囲んでいるので、まるで木漏れ日のような穏やかな光が降り注ぐのです。

もちろん幼い頃の記憶なので、多少自分の理想にアレンジしてる可能性はありますが、全然違ってる。ということはないと思います。
そんな気持ちのいい空間で、光を浴びながら絵を描く時間はとても至福のひとときでした。

まず、開始時間とか小うるさくありません。
お昼までに終われるくらいの時間で、みんな好きな時にまちまちにやってきます。
適当な時間に行くと、その日に描く対象が、アトリエの真ん中においてあって、みんなそれを囲んで黙々と描いているのです。

ほとんど誰もなにもしゃべりません。とても静かな時間。
ときおり先生が回って、見て、褒めてくれるだけ。
そう、先生は決して直そうとか正そうとかしませんでした。
道具の使い方に困ってたら、教えてくれるけど、絵の内容に関して手出しすることはありませんでした。

そして描きおわったら、先生のところにもっていきます。
先生は、それをしみじみと、しっかりじっくり鑑賞したあと
「素晴らしいですね」といい、
その画用紙の裏に「完ぺきです」と、書くのでした。

後ろに書くコメントは、必ず「完ぺきです」でした。
時々そこに花丸がついたりするので、完ぺきの度合いに多少の差はあるのでしょうが、言葉は常に「完ぺきです」でした。

小学1年生としては、最初意味がわからず。
親に意味をきいて知ったときも
「え。かんぺきなの?これが?」と疑ったものでした。

でも子どもは純粋です。
「先生がいうんだし、そうなのかなあ」と。
そして、だんだん完ぺきであることが当然になってきて、
いつのまにか「完璧な自分」を許している自分がいました。

先生は「私が今までに見てきた大人とちょっと違うぞ」と、子どもなりに感じられた人だったと思います。
言ってることと、思ってることが一致している、めずらしい大人。

それまで知ってた学校の先生や幼稚園の先生は、みんな「好きに描いていいよ」と表面ではニッコリ笑いながら、実際には「ちゃんと(常識の範囲内で)描きなさいよ」的な気配ムンムンでした。
子供はそういう、言葉にしない大人の思いに、その本人よりも敏感ですからね。

でもあの寡黙な先生は、みんなの絵を本当に完璧だと思ってました。
じっくりしっかり鑑賞して、うむ。と頷いて。

道後温泉のメッセージが伝えてくれたように、
「常に今が完璧」であることを、当たり前に理解していた人だったのかな。
と、ふとメッセージが届いたのに伴って思い出したのでした。

ちなみに、その後、私は引っ越してしまい、以来、絵を習うことはありませんでした。
でもそれ以降は、授業で描いた絵がコンクールで金賞をとったりとか、いろいろ入賞するようになりました。
(私自身は、入賞する絵としない絵の差がわかりませんでしたが。)

なんにせよ、先生のおかげで、
絵を自由にのびのびと描くことができるようになって感謝しています。

そうそう、だから私は絵に関しては常に完ぺきな感覚があるのだな〜、と書いてて気付きました。
思うとおり描けない時はあるけど、それでも「完ぺき感」みたいなのはある。
ああ、そっか。人生とか他のことも絵と同じ感覚で思えばいいのか。

いつも、常に、完ぺき。

三つ子のたましい百までも。
幼いころに、いい大人に出逢うのは大事だなあと、あらためて思った次第です。

とても大切なことを思い出せて、よかった。
先生、本当にありがとうございます。
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