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生き残っている。
20年来の旅行仲間の友人が、昨夏、他界していたことを、つい最近になって知りました。

旅行者同士、消息がしばらくわからないのはよくあることです。
何年に一度くらいしか会えない人も多いから。

彼が肉体を離れたときいて、驚いたけれど、どこかで「ああなるほど」と不思議に納得している自分もどこかにいて。
喪失感はある。でも悲しみとかではない。

なんだかとても静かな気持ちになり、世界にエネルギーが解放されていったような穏やかな感覚。
どこかで、そういう予感でもしてたのかな?
顕在意識ではぜんぜん自覚ないのですが…。
たしかに、長生きしたそうな人ではなかったけれど。

なんとも説明できない不思議な感覚に浸されて、しばらくは言葉にすることができなくて。
それがようやく少し言葉になりそうなので、書きながら、起こしている感じです。

他界する人は、いつも素晴らしい置き土産をプレゼントしてくれます。
彼も、私にしばらく静かに内側に潜っていく時間を与えてくれました。

その深みで手に入れたのは「私達は生き残っている」という事実。

どんな人であれ、今この世界に生きている人は奇跡的に「生き残って」今に在るのだ、と。


長期であちこち旅行してる人達は、ある意味ずっと生死を賭けながら旅をしている。
もちろん本人たちはそんなつもりではないのだけど、客観的に見たとき、たいがいの人は生死を分けるような場面に遭遇しながら生き残ってきている。
何人かの友人たちは、既に肉体を離れている。
別に全員旅行先で亡くなってるわけじゃないですよ。
でも、いつも命がけの、ギリギリで生きてた人たちが多いかな。
太く短く生きる人たち。

それなので、旅行者同士が久しぶりに会うときは、
「お〜、生き残ってるね!お互い」みたいな。
そして友人たちの消息が「生き残ってるかどうか」の基準で語られる。
「生きてるって、奇跡的なことだねえ」と、再会を喜びあう。
ほんのちょっとの再会でも、とても濃厚な時間になる。
私はその濃厚さ、全力で生きてる感じを味わうのが大好きだ。

今回も、最初にやってきたのは「ああ、彼は旅立ち、私たちはまた生き残ったな」というフィーリングだった。

ただ、その訃報をきいた日には、それは旅行者の範囲内での認識だった。
それが、内側の深みのなかでフト気づいた。

あれ?「生き残ってる」って、もしや今地球上にいる万人にあてはまることではないの?と。

誰しもが、今ここにいるってことは「生き残った」のだ。
おそらく誰もが、いつかどこかで、無意識・意識的に九死に一生を得るような体験をして今にいる。
たとえば事故や病気、自殺を考えてみたり、とかね。
知らない間にギリギリで助かってるシーンもあるかもしれない。
そこを超えて、今、ある。
つまり今この世界にいる私達は、生き残った者同士なのだと。
しかも明日はまたどうなってるかわからない。

それを一瞬に知覚したとき、世界全体を感じられたような気がしました。ゾクっとしました。

その奇跡的な凄さにリアルに触れさせてもらったことで、
またほんの少し、身近な人々から世界のあらゆる人々にまで、優しい想いを持てるようになった気がします。

みんな生き残った同士だと思うと、大きな一体感とつながりを感じて、感謝とともに何だか謙虚な気持になる。
街を無表情に歩く人たちも、不機嫌そうな顔の店員さんも、私と同じく、きっと今までなにかと苦労したり悩んだりしているのだ(もちろん喜んだりもね)。
その中で死ぬことなく、私と同じく「生き残っているのだ」と。

そして生き残った人たちは、ただ生きているというだけで、それだけで本来はクリエイティブな存在なのだ、と、その深みのなかで感じました。

と、書きながらも同時に、そう思っていない人たちがいることを私は知っています。
日々セッションしていると、そういう方に訪れていただくことも多いです。

誰かに先立たれたり、事故で一人助かったり、先の大震災のような災害を体験されていたり。
生き残った、というより、生き残ってしまった、みたいな感覚。
そして「生き残った自分の使命は何なのか、なにをすればいいのか」と苦しんでおられる。

そういった話を伺うたび、本当に大変で辛いことだなあと感じていました。
でも、今回思ったのは、
生き残ったからには何かをしなければ、と、外に向かってやるべきことを探すのは難しいことではないか?と。

もちろん、そういうことが起きたときには、きっと誰もが苦しみ、悩むところだと思う。
そして、きっとどこまで考えても、答えが出ないのではないかと。

「私はなにをすればいい?」と、生き残らなかった人たちや起きたことの意味などに焦点をあてると、どこまで背負えばいいのかわからなくなる。
そういった苦しみを、他界した人たちが望んでいるとは思えません(私だったら「気にせず自分の道を歩んでくれよ」と思う)。

だから「私は生き残っている」と「私」に焦点をあてていく。

生き残っている自分、に戻ってくると、今ある私や他者や世界に優しい気持を向けられるのが不思議。

「私は生き残っている」という事実にくつろいだとき、人はクリエイティブになり、世界に対して自然なかたちで、喜びと豊かさをもたらす存在なのだろうなあ、と。

なぜ生き残ったかの意味を探らない。生き残った事実こそが意味だ。
その現実そのものに信頼をおいていく。
今ここにいるのは予定どおりなのだ。

もちろん、世界を感じたとき、複雑な気持ちにもなる。
世界のどこかでは空爆が起きていたり、紛争があったりするから。
それでもやはり、生き残っている、という自覚があると、そういった世界の痛みは自分とつながっていることをリアルに感じられる。
だからこそ、今この場所で自分自身をクリエイトしていくことが世界につながることも、リアルに感じられる。

生き残っていることを感じ、感謝し生きるだけで、きっと人はクリエイトしているのだと思う。
そしてクリエイトすることで、世界はその分だけじわじわと喜びに満ちていくのだ。

…と、いうようなコトが、一瞬にしてバババっとやってきて、奇跡に鳥肌がたって感謝の津波が湧き起こったのでした。

うーん、言葉に変換するのは、まだ早かったかな。
うまくあの瞬間を表現できません。
まあでも、ここから熟成させていこうと思います。

日々、生き残っていることに感謝しながら、丁寧に生きていこうと思います。
それが先に他界した友人たちへの、一番のはなむけのように感じています。

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