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クスノキの花
今、店の近所にある大きくて枝振りの美しい、健やかなクスノキさんが花盛り。
木全体が白っぽい色に覆われて、ほのかにほのかに爽やかな香り。

木の下に座ってると、パラパラと花が降ってくる。
直径2〜3㎜の小さい花だ。

突然、ふと、花がどんな形なのか知りたくなって、落ちてきた花をつまんでみる。
人生で初めてクスノキの花としっかり見つめあった。

すっごいキレイ。

形の違う2種類の美しい花弁が3枚づつ計6枚、交互に並んで幾何学模様のよう。
雌しべ雄しべ、花粉の在りかたも可愛らしい。
クスノキからしたら当たり前だろうけど、こんなに小さいのに、しっかり「花」やってます!っていう感じがいとおしい。

面白くなって、他の花もいろいろ眺めてみる。
一つ一つに味わいがある。
花弁が白っぽかったり、エンジ色と交互に並んでたり、グラデーションだったり。
雄しべの並び方も微妙に違う。形もさまざま。

どの花を見ても全部あり方が違う。
雪の結晶は一つ一つ全部違う形らしいけど、それと同じかも。

そっか、同じ形は二つとしてないんだ。

と、当たり前のことに気づいて。
おおっ!とビックリして我に返り、
一つの花のミクロの世界から、パッと顔をあげて現実に戻ってきたら、
そこには風とともに降りしきる無数の花、花、花。
足元には、その花々が降り積もって。

ああ、ここに存在する一つ一つが、全て違う在り方なのだ。
と、思うとゾクっとした。

つまり、もちろん、ひいては他の花もそうなんだろうな、と想いを馳せてみる。
そして葉っぱも、石も、鳥も、人間も。

この世界の果てしなさにクラクラする。

と。ちょっと強めの風が吹いて、パラパラパラと耳元で音をたてて、肩に集中して花が降り落ちてきた。
「ほら、そろそろ店に戻らないと。開店時間だよ」
って言われたかのよう。

開店時間5分前。あわてて店に戻る。

クスノキさん、いつもいろいろ教えてくれてどうもありがとう。
今日も宇宙の悠久さ、無限さに気づかせてもらって。
おかげで、ちょっぴりだけ謙虚になれたような気がします(とか言ってる時点で
かなり謙虚じゃないけどね。ちょっぴりね)。
富士山とスクランブル交差点と。
(これは2006年12月のmixi日記の再掲載です)

先週、タイで暮らしている旦那のいとこが久々に帰国。
タイ人の奥さんと生後8ヶ月の息子と一緒に、下北沢の店に遊びに来てくれた。
奥さん&息子クンとはもちろん初対面。
奥さんは日本にくるのも初めてとの事で、ちょっぴりだけ話せる日本語でちょっぴりだけお話した。

「日本で観光したいとこって、どこ?」
「富士山と渋谷のスクランブル交差点(笑)」

あ。そっか。
他の国の人から見たら、富士山とあの交差点は同じくらい興味深いんだ、と初めて気付きましたね。
あの交差点、自分は普段から仕事とかで頻繁に使ってるから、何のひっかかりもなく、それどころか「あ〜も〜人多すぎ」とかイヤになってる時さえあったり。

でも確かに、よく考えれば世界的にみてもかなり特異なスポットだ。
富士山と同じくらい体験してみたいのもわかる。
きっと日本のテレビがブロードウエイをニューヨークのイメージ代表みたいに映すように、あの交差点はタイのテレビでは日本の都会の典型的イメージとして何度も写し出されてるんじゃないかな、って思った。

「これから渋谷に行って、あの交差点のまん中に立ってみるの」と、彼女はとってもワクワクしてた。

何だか、私も味わいたくなってきた。
だってここしばらく、そんな新鮮な気分であの交差点を体験したことなかったんだもん。
でも、そういえば東京に来たころにはすごく不思議な光景として見ていたような気がする。
なんだかちょっと自分の感性を掘り起こしてもらえた気がした。

で、その週末。
実は、インタビュー取材の関係で渋谷に赴くことになってました。
偶然ってすごい。

カメラマンさんと取材対象の方の撮影をどこでするか、という話になった時、
わりと普段はおまかせするのだけど、その日はちょっとわがままを言った。
「もしかしてベタかもしれないけど、スクランブル交差点使いたいな」

意見は採用され、さっそく対象の方を交差点に連れ出して撮影開始。
もちろん信号が青の時しか写せないので、何度も何度も青の時に撮影を繰り返す。
私は邪魔にならないよう、荷物番として横断歩道の岸辺で待ってるのだけど、
人の波が押し寄せるその交差点をずっと見てました。

赤青赤青と、同じことが繰りかえされてるような錯角をおこしてたけど、
信号がかわるたびに、そこにいる人たちもかわり、同じシーンは二度とないわけで。
それは富士山の刻々と移り変わる雲を眺めるのと同じくらい、見方次第で飽きないよなあ…などと感じてみたり。

私は自然が好きなもんだから、自然の「その一瞬」は大事にしてたけど、
ついつい、都会ならではの「その一瞬」を軽視してた事に気付いた。
どっちも、どれも、すべて「その一瞬」なのにね。

インタビューした人は今春トルコの皆既日食を見てきた人でした。うらやましいなあ。
でも、皆既日食も富士山もスクランブル交差点も公園の紅葉も、はては蛇口の水のしたたりも、すべてその一瞬、体験した瞬間、それが自分だけの現実。

「一瞬一瞬を大切に」
という、いかにもフツーな言葉が、私の中ではまた少し深く理解できたような気がした週末でした。

そんなわけで、当日の私のスクランブル交差点の楽しみっぷりはかなりのもの。

まずは、わざわざ先頭切って歩きはじめる。
どんどん人の波が四方八方から押し寄せて、とうとうまん中あたりでカオスに突入!
あの空間の空気、瞬間のエネルギー。
もしかしたらもう一生会うことのない人とすれ違ったかもしれない。
その瞬間をたっぷり味わう。
鳥肌がたった。
まん中で少し立ち止まる。
後ろの人に一瞬どつかれるけど、あとはスムーズに避けていく。

空を仰ぐ。
すごーく天気よくて、空が青くて、ふわふわ雲で。
まわりはいろんな映像が流れてて、いろんな音楽と人の話し声がまじりあって。

ひさしぶりに、あのスクランブル交差点に「ちゃんと居る」事を楽しんだ気がしました。
練習ってカッコいい!
これは、この前書いたインド古典ライブでヨシダさんと話す中で感じたことの個人的メモ。

ヨシダさんと話していて印象的だったのは、会話の端々にでてくる
「練習してますから」という言葉。

「すごい良かったです〜!」「ええ、練習してますからね」みたいな。

この言葉に対する圧倒的な自信というか、そこにある揺るぎない感じが、どっしりした安心感を感じさせるのだ。
「練習してますから」を発する時のヨシダさんの”在り方”が、私をホッとさせてくれるというか。

もちろん個人的には、練習以外に才能も必要だろうと思うのですよ。
シタールでは日本の第一人者と言われているヨシダさんは、何せ上手いし、すごいし。
でもそれは「練習してるからだ」と本人にキッパリ言われると、
水戸黄門のご印籠レベルで「ハハーッ、とにかく、問答無用でそうなんですねっ!」とナットクしてしまう。

演奏家という人たちは、いくらセンスやイメージがあっても、それを表現するだけの技術がないとどうしようもない、というリアルな現実がある。
あの自信と安定感、安心感は、リアルな現実における練習と自己鍛錬によるのだなあと、実際それをやっている方とお会いしたことで実感させてもらえたのでした。

そして私は、練習というものがいかに素晴らしいのか…というか、ヨシダさんの在り方を観て、純粋に
「練習ってカッコいい!」と感じちゃったのでした。

うん。なんだか、不思議にも、練習というものをしてみたくなったのです。

そういえば、ふりかえってみると、最近「練習」ってやってない。
…そもそも、練習ってどんな感じだっけ。
つまり、自分の中で練習を重視してなかったということも判明(汗)。

たとえば、今のリーディングのお仕事。
仕事ってつねに本番だから練習なんてできない、と、どこかで思ってた気が。

私は日々、お客さんとのセッションで、その方の魂からのメッセージを通訳させて頂いてます。
これは私の感覚では「勝手にメッセージが口から出てくる」という感じです。

自然に湧いてくるものを、そのまま流す感じ。何の努力もしません。
実際、そこはむしろ努力しないほうがいいと思ってます。
”努力”という行為をするときは「私」が頑張っちゃうということなので。

セッションではメッセンジャーという立場からして、いかに「私」という存在を消していくのか、みたいなのも大事な気がしているのです。

でも、今や「練習カッコいい!練習やってみたーい!」な私としては、
プロとしてリーディングのお仕事をするかぎり、
何らかの形で練習は大事だし、何かやってみたいぞ、と思った次第。

もちろん、直観を鍛えるとか、瞑想するとか、知識を深めるとか、そういうのも自己鍛錬になるのでいっぱいやったほうがいいと思う。
ただ、今の私の感覚でいうともうひとつ「練習」っぽくない感じ。もう少し練習チックなのがいい(ていうか、スルーしないでそれもやりなよ…)。

うーん、じゃあいったい何を練習すればいいのか。したいのか。
とか考えてたとき、パッと降りてきたのでした。

それは、自分自身の基礎表現力を磨くこと。

魂からのメッセージって、言葉で受け取るわけじゃないのです。
瞬間のことなので、自分でもまだはっきり掴めてなくて、うまく説明できませんが、
まだ言語化されていない”何か”が降りてきて、それを瞬時に言葉へ変換している…という感じ。

つまり、私の感じでは「自然に口から出てくる」んだけど、
実はそこにいくまでの過程で、言葉になってないメッセージを、いかにその人の感覚に寄り添った形で言葉にするか…を自動的にやっているのだと思います。

だとしたら、その機能を鍛えて、より精妙な表現力を身につけるのは大事だし、練習しがいがあると感じた次第。うん、しっくりきた。練習したい。

現在、こんな風に「精妙なフィーリングの、ちょっとした言葉の差を感じ取ってメッセージを表現する機能」をいつのまにか持つに至ったのは、ライターをやっていた頃の経験値があるように思う。感謝。

だとしたら「書く」という行為によって、その機能を意識的に磨いていくの、大事な気がしてきました。

そんなわけで、実は最近「書く」をサボり気味だったけど、
こうしてブログとかで、自分の内側にあるいろんな気付きなどを、どんどん言語化していきたいなあと思ったのでした。
うん、練習っぽい。

と、こうして書いとくと、またサボり気味になった時とかに読んだらいいかな、と思って。そんな個人的メモでした。

いつの日か「ええ、練習してますから!」って気持ちよく胸はって言ってみたいなっ♪
双子座流星群。
今日はもう冬至だというのに、今さら双子座流星群って…とも思ったけど、個人的に書き留めたいので(このフレーズどこかで…)。

皆既月食に続いての天体イベントだった14日の双子座流星群ピーク。
おかげさまで天気も良く、しっかり観れました。
いつもは流星群の情報が届いても、
「この時期寒いしな〜(だいたい「何とか流星群」がくるのは寒い時期が多い気がする)」と、寒さに負けて観そこねます。

でも今回は、すごくいっぱい流れたからだと思うのだけど、
家の窓から眺める狭い範囲だけでも何個も流れてくれたので、
お布団にくるまって、あったかぬくぬくと部屋で観測できたのでした。ラッキー。

あったかいおかげで3時間くらい、何もしないでポーっと空を眺めてましたが、これ、外で観るとしたら結構大変な気がする。

でも月食の時は寒くてもわりと長く外にいたような。

月の場合、空にちゃんとずっと『ある』ので、時間の流れとともに変化していく月をずっと眺める、という行為を『する』ことは、わりとラク。

流星の場合はその逆で、流れる(=『する』)のを観るために、観測者側が『ある』という状態になってる必要がある。
で、たぶん、この『ある』という状態になるのが難しいのだと思う。

この『ある』は、待つのとはちょっと違う。待つ、だと『する』ことになる。

月とちがって何もない状態で「いつ来るんだろう」と、待つという行為を『する』のは苦行に近い。
だって、いつ来るかわかんないんだもの。

だからだな。今まで流星群の観測については、何かが大変そうなフィーリングがあってわりと消極的だったのは。それを無意識に感じてたんだね。

でも今回、窓越しにゆっくり観れたからこその気付きなのだけど、
『する(=待つ)』と思うと大変だけど、『ある』つもりで観測すれば、とても面白い時間でした。

ポツポツと輝く星空を観ながら、流星を無為に待つ時間の贅沢さ。
ポーっと見てると、だんだん星が私なのか、私が星なのか、一緒なのか。
わからなくなる。時間が消えていく。

それ自体が心地よく、『ある』という状態だったのではないかと。
今も記憶はさだかではないけど。
そんな状態になり、忘れたころに、スーっと流れ星が。
そして、ハッと我に戻る。そしてまた混じり合って、また戻っての繰り返し。

大小あわせると10個以上見れたかな。

でもそれで「最後にもう一つ観たら寝よう」と思ったとたん、我欲が出て『ある』ができなくなる。
空のスペースを目であちこち探してみたり、時間が長く退屈に感じてしまったり。

流星群の気付き。
やっぱり私は『する』より『ある』のほうが好きみたい。以上。

というメモですが。
こんなめんどくさい表現を考えたのは後付けです。
あの空や星との不思議な一体感は何だったのかな〜と思って。
あえて表現するとこんな感じかと。
「あの時、何をやってたんだろう」みたいなこと時折あるけど、こうしてしばらく時間をおいて寝かせとくとジワジワあがってきたりすることも。

あの感じを思い出せるよう書き留めたかったのでした。

さてさて、そして今日は冬至。
ご近所でいただいた柚子をたっぷり入れた、ゆず湯にまったり浸かってこようかな☆
皆既月食
今日はもう双子座流星群だし、今さら書くのもどうかと思ったけど、
やっぱり自分の記憶としてちょっと書き留めたい感じなので。

この前の皆既月食、すごかった。
ちょうどお仕事帰りに観れるタイミングで、空も晴天。
どうやら、ちょうど雲さえかかってなければ、日本全体で観測できたとのこと。
つまり、あのすごいのを、観る気があれば多くの人が見れたってことだ。

これまでの記憶では、こんなにしっかり観たことなかった。
少しづつ月が欠けていって、だんだん赤銅色に染まってく。
星がぽつぽつと輝きはじめる。
首は痛かったけど、ずっとみてた。
皆既月食中は、なんだか世界中がシンと静かになったような気分だった。

途中、厚い雲に覆われるときもあったけど、おおむね観れたかんじ。
皆既月食中もすごかったけど、
あっ!って、身体の中でエネルギーが動いたのは、月が地球の影からでてきたとき。
キラリとした月光を浴びて、
「あれ、月ってこんなに輝いてたっけ」と身体が跳ねるようなドキドキ感。
そこから、どんどん輝きあふれて、そして真ん丸なフルムーンでピッカピカ。

あ。これ、リセットしたな。

なんかね、そう感じた。

最近、言葉では表せないけど、自分の内面がいろいろ変化している感触があった。
でも何なのかもわからない。
でも確実に何かが変化してるような感じ。
感触的には、今まであった旧知のいろんなものをぜんぶ崩して、
まぜまぜしてるような感じかなあ。

それがね、あの月食をみてリセットされて、整ったかんじ。
大袈裟にいうと、再誕生なのかもしれない。ある部分でね。
それが何かもわからないので、説明はできないのですが、
大事なのは本人のフィーリングだもんね。
そう感じて、それがとても大切なことと感じられたらそれでOK。

この感じを、メモしておきたかったんだ。それだけ。

でも、この月食を日本全体で観測できたのはすごいと思う。
同じようなことを感じた人はけっこういるような気がする。
月光が再び戻ってきたときの、あのフィーリング。

きっと、いろんな意味でリセットが必要な時期なのかもしれないなあと。

うんうん。いいタイミングで観れてよかった。
おてんとさま、ありがとうございます。

さて、今日は流星群。
果たしてみれるかな?


灯籠流し
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さて昨夜、仕事が終わってから平和公園に行って、灯籠流しを見てきました。

遅めの到着だったので終わり頃だったけど、公園内にはまだまだたくさんの人たちがいて。

外国の観光客も多く、周囲は様々な言語が飛び交ってる。

まるでお祭りのような、でもちょっと違う空気の賑わしさ。

ライトアップされた原爆ドームが逆さに映った川面を渡る、たくさんの灯籠を、川べりの階段に腰をおろしてぼんやり眺める。

それだけで、何だか心の奥がお掃除されてクリアになっていくような。

これもまた、私の勝手な感じ方なのだろうけど、小さくゆれる灯火ひとつひとつが、空間に残っている過去のこだわりとか、今となってはいらない感情みたいなものに光をあてて、そっと優しく抱いてくれてる感じ。

「今までありがとう」って。

そしてそれを、光とともに水に流して、洗い清めていくような。

そんな風に感じている私個人にも、見ているだけで、そんなことが起こっていたみたいで。

しばらく眺めるうちに、心の奥の澱のようなものが、スッキリ洗い流された感じになりました。不思議。

その後、記念碑へお祈りに行ったら、ものすごい行列。まるで初詣みたい。

けど、もちろん賑やかではなく、でも、しめやかでもなく。優しい繊細な空気感。

ハチロクの平和公園の夜は、感謝と和らぎにみちているように思いました。

素敵な夜をありがとう。

ハチロクの朝
広島に来て2年目のハチロクは、平和式典には行かず、普段の日常の中で過ごそうと思った。

今朝、いつもより少しだけ早く目が覚めた。

ちょっぴり薄曇りでそこそこ蒸し暑く、すでに蝉たちはエネルギー全開で鳴きまくってる…という、いつもと変わらない、一見ふつうの夏の朝。

…のはずなんだけど、やっぱり何だか普段と違う気がする。

ハチロクの広島の朝は、どこか祈りにみちている。

うまく言えないけど、大晦日の深夜の空気の感触が少し似てるかも。

起きてすぐ、ハートに不思議な静けさがやって来た。

溢れてきたのは、この世界への感謝。

戦争とか、いろんな愚かしいこともあるけれど、それでもこうして、地球上では命が途切れないでずーっと続いているという奇跡。

その流れの中の一部として、この瞬間生かされていることへの、不思議さと感謝。

ん〜、この、今感じてる壮大なエネルギーをうまく言葉にできるといいんだけど、書いてみると陳腐になるなあ。

でも私は言葉が好きだから、こうして試みること自体がいいのかな。

あ、話がそれてる。

そう、そんな雄大で滔々と流れるエネルギーに触れている感じ。畏敬の念。

この中にいると、地球上で初の原爆投下を経験した、広島という場ならではの「許し」のエネルギーも感じられる。

この許しの感触、すごいなあ。慈悲とは何か、を垣間見せてもらってる感じ。

マインド的には、ここに原発事故とかの話も絡めたくなるのだけど、今はハートが優勢なので、これからしばし出勤時間までは、今感じてるものにもっと潜りたいので瞑想しまーす。

そのあとは今日もまた、いつもの日常をワクワク体験しよう。

ハチロクに。
まずはどうもありがとう。
続いてきた命を、今日も丁寧に生きようと思います。
この美しい気づきをどうもありがとう。

合掌。

上関原発の現状に思うこと
最近、ネットなどで見るかぎり、上関原発への関心があちこちで深まってきているように思う。

それも当然だろうな、と思うほど、ここ数日の中国電力側の行いを、私は暴力的で浅ましく、人道的ではないと感じます。

広島在住の私は、残念ながら中国電力を使ってますが、起業家のどなたか、原発を使わない別の電力会社を作りませんか?必ずそちらの会社に乗り換えますので。

昨日はとうとう反対派の方に怪我人が出たそうだ。それでも淡々と作業を続けているらしい。

素直に怒りを覚えた。

私は実は、あんまり怒りというものを体験したことがない。
それは別に、優しい人でもいい人でも何でもない。

ただ単に、怒るのが下手なのだと思う。
怒りという感情を感じるのが難しいのか、あるいは、感情のエネルギーを怒りに錬成するのが下手なのか。
普通なら怒りに転換しそうな感情は、だいたい悲しみの方向に持っていかれてるような気がする。
まあ苦手ゆえに、それも実際はよくわからないのだけど。

だからよほどのことがないと、私の中の鈍い怒りセンサーが発動しないのですが、その点、この上関原発は、私の怒りツボのかなりストライクゾーンらしく。

おかげさまで、素直にメラメラっと怒りがきます。

せっかくなので味わってみる。

感じてナットク。

たぶん私のハートは、他のネガティブな感情よりも格別にこの感触が嫌い。
だから他の感情に転換してるのだろうな。

どのあたりの感触がイヤなのかさらに味わってみる。

…たぶん、この、何か突き上げてくる感じが苦手、かな。
「何かやれ!怒ってんだろ、動け!」みたいな。

なるほどな〜。怒りって、きっと何か行動をおこすのにとても助けになる感情なのだと思う。

でもその衝動のままに流されると、何か対象を見つけようとしがちな感じ。
怒りをぶつける対象をね。

けど、怒りってのは、単に私がたまたまある状況においてそう感じたというだけ。ぶつける対象を探すのはまた別問題。

私はこの2つがセットと感じてたのかも。
しかもそこがイヤで。
怒り=ぶつけるのが嫌いで、抑圧する負荷まで感じるから、怒りが苦手になったのかもしれない。

だから、怒りのベクトルの方向を意識的に変えていこうと思いました。

怒りは、たまたまナチュラルに生まれてくれた感情で、それを外の対象ではなく、そのエネルギーを自分に向けて、やりたいことにクリエイティブに使えば有効なのだと思う。

この感情の私なりのパターンに気づけたのも、上関原発の一連の流れの中で。

だって、素直に怒るでしょ、何かがぶつかろうと突き上げてくるでしょ、

でも、誰にもぶつける気になれない。
それで気づけた。

ほんと、一つ一つの人や物事自体は私の怒りをぶつけるようなことではない。

現場の作業員さんも警備員さんも、多くの人たちは生活のためにそこにいるだけだと思う。

また本気で心から賛成派という人がいるなら、それはそれでその人の理解の最善であれば納得する。
そういう人は自分の家の隣が原発でも嫌ではないだろうし。

あるいは、中国電力の幹部だとか、お金目当てでやってる人も、たぶんその人の理解の最善なのだ(そこでまた、怒りより悲しみになる私)。

私個人の感情は、そのあまりにも浅はかで知恵のない行為には驚くけれど。

いったい地球が、大地や海が、どれほどの奇跡の上に、私たちをこうして生かしてくれているかをしっかりと実感し、知恵にしていれば、お金や権力的な利益のために動けるわけがないのだ。

うん。
そうだ。
だから、私も今の最善を尽くそう。

怒りにより発動したエネルギーは、何かこの一連の流れの中でできることはないか、といきり立つ。
でも、ダイレクトに関われる何か=ぶつける対象を探してた私は、そんなダイレクトな活動が実際現実的にはできなくて、どこか無力な感じ、苦しい気持ちを持っていた。

でも、このエネルギーを対象や事象に向けるのではなく、かといって、どうせ何もできないからと抑圧するのでもなく、
「このエネルギーで今私ができること、やりたいことは何か」と自分に聴いてみた。

あ。感謝の不足だ。

根本では「感謝」の不足に怒ったのだ、と思った。

この地球や宇宙に対して、今このままでも充分感謝していても当然のはずが、今の人類次元の世界では、常に「足りない」という気持ちに満ちている。いつも不足していて、欲しい欲しいと欲求している感じ。
今の地球に対する感謝エネルギー量は、もたらされているものと見あってない感じがする。

たとえば今、原発を建てている作業員さんや警備員さんが幸せや喜び、感謝に満ちている感じはしない。
反対側も感謝や喜びに満ちた生活を奪われている。

原発建てても感謝が満ちないどころか減る世界なら、電気量が減っても、その時にある分で生きればいいと私は思う。
それは賛成反対の問題ではなく、どうやればより幸せや喜び、感謝に満ちた世界になるのか、という考え方の問題だ。

そのためにはひとりひとりが、
「私は今しあわせに満ちているか」と心に確認する力が必要だ。
たとえば原発でも「私は原発があることで幸せと感謝が満ちるのか」と確認する。
そういう基準を一つ持つと、もっと幸せや感謝について考えるようになるかもね。

とか、今思いました。

さて、そんなわけで感謝に満ちた世界にする方向に向かって、今私にできることは何か考えてみた。

とりあえず、この長い日記を書いてみました(笑)。

きっと私みたいに、何か動きたくて、でも無力感から怒りを抑圧して苦しんでいる人もいると思うので、封印解除までの過程をシェアしてみました。

そして、上関原発のことを知らない人のために詳しそうなブログをご紹介。

http://blog.shimabito.net/

とりあえずまずは知るといいと思う。賛成反対問わず、まずは関心を持ってもらえればと思います。

あのあたりの海は本当に美しいそうです。
あるお客様曰く、
「私はスピリチュアルに興味はあるけど、自然のエネルギーとか感じられないほうだったのに、あそこの海では、そんな私でもこれがエネルギーなんだ!と感じられてビックリしました。本当に素晴らしい場所ですよ」とのこと。

私もいつか流れが来たら行きたいです。

最後に。
今現場で体張って頑張っている反対派の方々に応援と感謝とご無事をお祈りさせてください。

どうか感謝と喜びに満ちた世界になっていきますよう。

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